クラシック音楽というと、オーケストラやオペラのような大規模なもの、あるいはピアノやヴァイオリンなどの楽器のソロを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。けれど、クラシック音楽の真髄に触れたいと思ったら、決して忘れてはならないジャンルがあります。それが室内楽です。
以前、ウィーン・フィルのメンバーが、真顔でこう言っていたのを聞いたことがある。
「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を知らないような指揮者とは、ベートーヴェンの交響曲を一緒に演奏したくありません」
この言葉は、ウィーンの演奏家たちにとって、どれほど室内楽が重要であるかを如実に示している。
ウィーン・フィルに限ったことではない。優れたオーケストラであればあるほど、そのメンバーは、日頃は室内楽を好んで演奏する傾向にある。
これは鉄則と言ってもいい。
なぜなら、室内楽――少人数のアンサンブル――において、彼らは組織の中の一員としてではなく、そこで初めて一個人としての音楽家に戻ることができるからである。
大規模なオーケストラの場合、そのなかで一人の演奏家は、集団の中にどうしても埋没してしまう。人数が多ければ多いほど、ともすれば、小さな、顔のない存在になりかねない。
室内楽の場合、演奏家は自分自身を取り戻し、顔のある音楽家になれる。
アンサンブルの基本に立ち返り、少人数の演奏家どうしのコミュニケーションのなかで、ただ自分の音を奏でるだけではなく、お互いの音を聴き合う、充実した音楽の時間を過ごすことができる。
そうやって生き生きとした音楽、指揮者のいない自主的なアンサンブルの感覚を取り戻してから、彼らは再び、壮大な交響楽の世界に立ち向かっていく。
聴き手にとっても、室内楽は、クラシック音楽の真髄を味わうための、もっとも身近な手段である。以下、大人のためのクラシック音楽として、なぜ室内楽をオススメするか、その理由を5つ挙げてみたい。
1)見かけ重視のスター主義から離れていること。クラシック音楽もショウビジネスには違いないから、スターの存在は決して悪ではなく、むしろ必要な華ではある。だが室内楽にはそうしたチャラチャラしたところはない。だから客層も静かで落ち着いている。
2)スペクタクルな臨場感にあふれている。室内楽は地味だとよく言われるが、実際はその逆かもしれない。少人数のアンサンブルをライヴで近くに見ることほど興奮させられるものはない。各奏者の表情や視線や身体の動き、お互いの音をどう感じ合っているか。その気配も含めて、時には白熱するようなスリリングな音楽を味わえるのが室内楽なのだ。
3)作曲家たちにとって交響曲やオペラがパブリックな場だとすれば、室内楽はプライヴェートな場である。もし好きな作曲家がいるならば、彼らの心の声が秘められている名曲の宝庫である室内楽に耳を傾けることで、いっそう深いところに入っていける。
4)演奏家の実力の割には価格がリーズナブルである。地味と思われやすいせいだろうか。よほどのことがない限り、1万円を超えることはまずない。中心価格帯は3千~5千円程度。庶民の懐に優しいのに、音楽的には最高の充実が期待できる。
5)「大きいことはいいことだ」というコマーシャルが大昔にあったが、それが必ずしも当てはまらないのが、室内楽のいいところである。大きさは問題ではない。むしろ室内楽における最大の価値は「継続」である。その三重奏団、四重奏団を何年続けてきているか。その蓄積によって、アンサンブルが熟成され、演奏は味わい深くなっていく。即席な結果を性急に求め、打ち上げ花火ばかりを期待するのではなく、規模は小さくとも、長い年月をかけて歩みを進めていくことが重視される。少人数であるがゆえにフットワークも軽く、地方の津々浦々にも本物を届けられるジャンルでもある。そういった意味で、室内楽とは良心の証しであり、美徳のようなものである。
最後にライヴのご案内を。
東京には室内楽を得意とするコンサートホールがたくさんあり、それぞれの魅力を持っているが、この時期、特にお勧めしたいのは、サントリーホールで現在開催中の「チェンバーミュージック・ガーデン」である(今年は6月16日まで開催中)。
サントリーホールというと、あの美しい壮麗な大ホールを思い浮かべる方も多いと思うが、実はもうひとつ、かつて小ホールと呼ばれていたブルーローズというホールがある。しっとりと落ち着いた貴族の館のサロンのような雰囲気は、19世紀ヨーロッパの音楽にもふさわしい。
毎年6月の約2週間、内外の一流演奏家たちが集う「チェンバーミュージック・ガーデン」では、このブルーローズを横向きに使う。つまり、演奏家たちの舞台をぐるりと囲むように客席が配置される。
通常のコンサートでは舞台と客席は、対峙し対決するようにレイアウトされているが、ここでは親密さが優先される。どの席からも音楽が近く感じられるのがいい。
「チェンバーミュージック・ガーデン」の特徴は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全16曲を、2011年の第1回から今年の第9回に至るまで毎年演奏し(改修工事による期間短縮で行うことができなかった2017年を除く)、その周囲を古今の室内楽の名作で色とりどりに展開していくプログラミングの妙にある。
ぜひこの6月、サントリーホールのブルーローズという、音楽と聴衆が最も近くなれる場所で、あなたも室内楽デビューしてみては、いかがだろうか。
会期:〜2019年月6月16日
会場:東京都港区赤坂1-13-1 サントリーホール ブルーローズ(小ホール)
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/feature/chamber2019/
林田 直樹
林田 直樹
音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。
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