ビル・エヴァンスの伝記映画『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』を観に行ってきました。ビル・エヴァンスとはどんなピアニストだったかをここまでわかりやすく伝えてくれるものは他にないと言えるくらいによくできたビル・エヴァンス入門にぴったりの映画でした。
ビル・エヴァンスのように様々なエピソードを並べれば、簡単に悲劇の物語ができてしまう人生を送ったミュージシャンもなかなかいない。薬物依存だった彼の人生が「時間をかけた自殺」と評されていることもジャズファンの間ではお馴染みで、彼のキャリアはネガティブな意味でのドラマチックさで彩られている。本作も様々なエピソードが家族や近親者、周りのミュージシャンから語られ、エヴァンスが様々な困難や喪失により薬物への依存が進み、心身ともに少しずつ 死に近づいていく様子が丁寧に描かれている。
エヴァンスに起きた悲劇とその時期の作品に宿るものが結び付けられたテキストを幾度となく目にしてきた多くのジャズファンにとっては、その悲劇のディテールが明らかになることで、その時のエヴァンスの心情をより生々しく想像することができるようになり、それぞれの作品を物語として受容できることの深みは更に増すだろう。
ただ、個人的にはそういったエヴァンスの人となりや人生の話よりも、エヴァンスの音楽そのものにフォーカスしている部分がかなり多いことこそがこの映画の重要なポイントだと思っている。この映画はなぜビル・エヴァンスがこのようなスタイルになったのか、また、なぜビル・エヴァンスがジャズ史において偉大な功績を残したのかを、エピソードを交えながら、適時分析をしながら描いている。母親がロシア系だったために、家にはチャイコフスキーやストラヴィンスキーなどのロシア系のクラシック音楽のレコードがあり、それを聴きながら演奏していた幼少期のエピソードから始まり、初期の経歴をひとつづつ振り返っていく前半部の構成のおかげでどんどん理解が深まっていくことはこの映画がビル・エヴァンス入門にぴったりな理由だ。
またエヴァンスがプロになってからはその楽曲や演奏方法を映画ならではのやり方で上手く解説している。ウォーレン・バンハートやビリー・テイラーと言ったジャズピアニストたちによるエヴァンス評が幾度となく挿入されるだけでなく、エヴァンスのキャリアを代表する名曲の演奏の映像を流す際にはその時のエヴァンスの手元が写っている映像を選び、手や指の動きをしっかり見せつつ、その後に(ウィントン・マルサリスらと共演してきた)名ピアニストのエリック・リードが実際にピアノを弾きながら分析した映像を挟み、またエヴァンスの演奏映像を見せるような構成が何度もある。
「Waltz for Debby」「Very Early」といった名曲の印象的なフレーズがまるでパズルのようにデザインされていて、エヴァンスの両手の指が時に複雑に交差するように奏でられることで、誰もが口ずさみたくなるようなあの一見シンプルで美しいメロディーが生まれていることがわかる。ここだけでもエヴァンスがいかに優れた作曲家だったかを実感することができるだろう。
そうやって、ピアニストとしてのエヴァンス、ジャズ・ミュージシャンとしてのエヴァンス、作曲家としてのエヴァンス、その様々な要素がひとつずつ解説されて行く前半部分を見れば、これまでにエヴァンスをそれなりに聴いてきた人でも、エヴァンスの音楽の聴こえ方がずいぶん変わってくるだろう。視覚と聴覚と言葉をシンプルに繋げることで、ピアノをやってなくても、譜面が読めなくても、感覚的に理解できるようになっているのがなによりすばらしいのだ。
白眉は1959年リリースの『Everybody Digs Bill Evans』に収録された「Peace Piece 」の解説シーン。同年にリリースされていたマイルス・デイヴィスの名盤『Kind of Blue』に収録されている「Flamenco Sketches」にも影響を与えた名曲だ。その特異性や美しさ、そして歴史的な重要性を、様々な映像を繋げながら迫っていく 。
映画を見てから改めて聴いてみると、印象的なコードを独特のタッチで繰り返しながら、少しづつ展開していく独特な構成をしている「Peace Piece」の魅力をよりはっきりと感じることができた。音を空間に立体的に配置する発想のすごさと、その音のデザインにより複雑で微妙な色合いの情感が絶妙にコントロールされていることで、メランコリックで、映像的で、同時にエモーショナルなサウンドが生まれていることに驚き、圧倒された。
そんな楽曲の中では、鍵盤がゆっくり押され、ゆったりとハンマーが動き、それが鈍く弦に振れることで芯はありながらも揺らぐようなどこか淡い音色が発生するその一連の動作がまるでスローモーションのように視覚的に浮かんでくるエヴァンスのピアノの一音一音が連なっている。その音の運動がもたらす光景は、もしかたら初めてジェイムス・ブレイクのデビューアルバム『James Blake』を聴いたときの衝撃にも似ているのかもしれないとふと思った 。
この映画を見れば、「Peace Piece」という曲の分析を通して、 『Kind of Blue』がなぜにあそこまで偉大なのか、そして今でも多くの人を魅了し続けるのかの理由が歴史的なモードジャズ云々とは別の部分からも見てくるはずだ。
他にもスコット・ラファロやエディ・ゴメスをはじめ、ポール・モチアン、マーク・ジョンソンなど、ビル・エヴァンス・トリオの歴代のメンバーの演奏映像やコメントが出てきて、それらにもまたその都度、解説がついていて、 その変化を知ることができて、彼の活動の主軸だったトリオの歴史も要点がわかりやすくまとまっている 。
本作はジャズ史における偉大なピアニスト ビル・エヴァンスのキャリアの大枠を悲劇的な物語と併せて掴める優れた入門編だ。
後年、ソロピアノや、ピアノでの1人多重録音、ギターやフルートとの共演やオーケストラなど、様々な形態にもチャレンジした(近年再評価も進んでいる)時期の解説がないのはちょっと残念だったが、それに関してはこれから各々のリスナーが自分で聴いていくべき中級編的な宿題だということなのだろう。映画を見た方は、レコードを買うなり、AppleMusicやSpotifyを聴き漁るなりして、映画で語られていないエヴァンスに出会ってもらいたい。そこにはまだまだエヴァンスを再発見するための宝物が埋まっているはずだ。
柳樂光隆のおすすめ邪道ビル・エヴァンスの5枚
『From Left to Right』
ピアノやフェンダーローズの多重録音。「Children’s Play Song」は隠れ名曲。ブラジル人作曲家ルイス・エサのカヴァーがメロウ。
『Symbiosis』
オーケストラとのコラボレーション。クラウス・オガーマンによる尖った編曲がかっこいい。
『Conversations With Myself』
タイトルは自己との対話。「自分とのインタープレイ」だったり、「自己の内面への探求」みたいなことを想像させるディープなピアノの多重録音。
『Affinity』
ハーモニカ奏者のトゥーツ・シールマンスとのデュオ。心温まるほのぼの系エヴァンス。
『We Will Meet Again』
トランペットとサックス入りの珍しいクインテット録音。トム・ハレルの演奏がエヴァンスに合っている。ソロピアノで奏でるタイトル曲が美しい。
アップリンク渋谷・吉祥寺ほか全国順次上映中
1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。
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