#02 『グリーンブック』はピアノを聴け

#02 『グリーンブック』はピアノを聴け
『グリーンブック』TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー (C) 2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.
『グリーンブック』TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー
(C) 2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.

『グリーンブック』は公開される前からずっと気になっていた映画だった。この映画の音楽を担当しているのがジャズピアニストのクリス・バワーズだったというのがその理由だ。

1989年、LA生まれのクリス・バワーズはジュリアード音大出身のエリートで、ジャズシーンのスターの登竜門セロニアス·モンク・コンペティションのピアノ部門の優勝者。若くして自身のリーダー作『Hero + Misfits』をリリースして高い評価を得ていたし、共演していたホセ・ジェイムスや黒田卓也は口をそろえて彼を「天才」と評していた。その上、ジェイZやトライブ・コールド・クエストなどヒップホップの世界からも起用されていた。誰もがクリスはジャズの未来を担う存在になるんだろうと思っていたところ、その活動の消息が消えていた。

実はクリスは10代のころから映画音楽への関心を持っていて、ハワード·ショア、マイケル・ジアッキーノ、ジョン·ウィリアムズなど、映画音楽の作曲家への尊敬を口にしていたし、大学でも映画音楽を学んでいた。彼はジャズではなく映画の世界へ身を投じていて、順調にキャリアを重ね、あっという間にアカデミー賞受賞作の音楽を手掛けるまでになっていた、というわけだ。

この『グリーンブック』は1950年代ごろから活動していたドン・シャーリーという実在の黒人ピアニストのエピソードを基にした映画だ。ドン・シャーリーは黒人でありながら、ロシアの旧ソヴィエトにあったクラシックの名門レニングラード音楽院に留学した天才ピアニスト。ゴスペルを出発点にクラシックを学んだ彼は、ジャズのシーンとは関わらなかったとされているが、その演奏を聴くとジャズと通じるものが感じられる。ただ、それはジャズではないし、もちろんクラシックでもゴスペルでもない、その全ての間にあるオリジナルな音楽だと思う。

(C) 2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.
(C) 2018 UNIVERSAL STUDIOS AND STORYTELLER DISTRIBUTION CO., LLC. All Rights Reserved.

そのドン・シャーリーのピアノ部分はすべてクリス・バワーズが演奏している。クラシック上がりならではの左右の手が全く異なる動きをする楽曲を躍動感たっぷりに、しかも、スタインウェイのピアノをパワフルに鳴らし切りながら、それと同時にそこに薄っすらスウィングの感覚や、ゴスペルっぽい響きを加えて、ドン・シャーリーの音楽をライブ感満載で奏でている。

クリスはヒップホップとジャズを融合させるような新しい感性だけでなく、ジャズピアノの歴史をしっかり学び、ジャズの伝統を大切にしているのも彼のピアノの特徴だった。2014年にYouTubeアップされている「History of Jazz Piano」という動画を見るとそれがよくわかるので是非見てほしい。

たった11分で1899年から2014年までの100年を超えるジャズピアノの歴史を一気に演奏するという動画なのだが、ここでクリスはジャズだけでなく、スティービー・ワンダーやレイ・チャールズなどのR&Bやソウルも含めたこの100年のアメリカの黒人音楽のあらゆるスタイルの演奏を完璧に再現している。つまりここまでアメリカのピアノ音楽史への理解があり、それを体得しているからこそ、ドン・シャーリーのようなあまりに特殊なピアニストのスタイルをも演じることができたのだと思う。

映画の中にドン・シャーリーが好きだというクラシックの作曲家ショパンの曲を奏でるシーンがある。ここに至るまでの様々な文脈と感情が入り込んだ重要なシーンだが、そこでクリスはそんな状況のすべてを表現してしまうような圧倒的な、それでいて極めて繊細にその状況を描き出せるバランスをも併せ持った演奏で答えている。「あれの後に、この状況で、ショパンを、こんなスタイルで演奏した」ことの完璧さに僕は胸を打たれた。

『グリーンブック』は単純に面白かったり、感動したりするいい映画なのだが、僕にとってはその音楽が上質なだけでなく、ストーリーや背景と寸分たがわぬ演奏されたピアノがすごい映画としても記憶されると思う。

PROFILE

柳樂 光隆

柳樂 光隆

1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。

MEDIA

otocoto