「オペラ夏の祭典」として、新制作された「トゥーランドット」(大野和士指揮、アレックス・オリエ演出/東京文化会館、新国立劇場、滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール、札幌文化芸術劇場Hitaruと4つの会場で7月12日から8月4日まで11公演)。その舞台を通して、改めてプッチーニの最晩年のこの未完の傑作について、考えてみた。
幕が開いて、すぐに思った。
これはまるで、映画「ブレードランナー2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2017年)の世界ではないか、と。
「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督、1982年)のその先にある、さらに自然破壊と汚染の進んだ、超管理国家が舞台だ。
科学技術は進んでいるが、人々に希望はなく、青空も星空も、緑も花も、季節の風物も全くない。色彩が、喜びが、人間らしさが、ほとんど消えてしまっている社会。
ごく一部の特権階級だけが富を独占し、大多数の人々は極貧にあえいでいる。
社会全体に思いやりも情けも感じられず、他人の不幸や死を喜ぶ、冷たく残酷な雰囲気が支配している、陰鬱な帝国。
このオペラの本来の舞台設定は、古代中国である。
音楽はエキゾティックに書かれており、物語は寓話性に富んだ、おとぎ話の世界。肥大化した超幻想とでも言えようか。ストーリーも突拍子もないことが多く、ツッコミどころ満載なのだが、それで全然かまわない。おとぎ話なのだから。
今回のアレックス・オリエの演出は、そこにリアリズムを持ち込んだ。
近未来にありうる社会像として、ぞっとするような現実味がある。
そこが何と言っても面白かった。
すり鉢状に作られた無機的な高層建造物の谷底のような場所が舞台となっていて、群衆はその壁に張り巡らされた階段に群がり、下の方の様子をうかがっている。
月の光など決して降り注いでは来ない。そういう、すべての人にとって平等な恵みというものは、ここでは存在しないのである。
舞台上部の方には、串刺しにされた生首が多数さらされている。
やがて要塞がゆっくりと威圧的に下降してきて、白く輝く権力者が鎮座している。
ぼろぼろの汚い服を着た人々は、ひれ伏し、恐れおののき、崇拝し、蹂躙され、互いを憎しみあうばかり――。
この大帝国に君臨するトゥーランドット姫は、憎しみのかたまりのようになっている。
諸国からやってきた、求婚する王子たちに、3つの謎(わけのわからない難題である)を出し、それが解けない者は容赦なく斬首されるのだ。
いったいこれまでに何人の男たちの首を刎ねたのだろうか。
トゥーランドットが男たちを徹底的に拒絶するのには理由がある。
1000年も前に、この宮殿に平和に暮らしていた清純なロウリン姫は、侵入した異国の男たちに乱暴され、殺された。
トゥーランドットは、そのロウリン姫の悲しい絶望の叫びを決して忘れない、だからこそ男たちに復讐を続けているというのだ。
1000年前の恨みを忘れない、というのは、すごいことだ。
今回の舞台でのトゥーランドット(イレーネ・テオリン)の純白の姿を見ながらふと思ったのは、彼女がなぜこれほどまでに残虐な復讐を続けているかというと、「男性によって理不尽な暴力を振るわれ、侮辱されている、この世の女性たちすべての悲しみ」を、一点にわが身に集中させているからではないか、ということだ。
そう思ってみると、トゥーランドットの孤絶が、とても悲しいものに見えてくる。
オペラ史上もっとも冷酷なヒロインとして有名なトゥーランドットの底にある、本質的なナイーヴさを、今回の舞台はよく伝えていた。
このオペラのもう一人のヒロイン、女奴隷リュウ(中村恵理)の存在感が、今回の舞台では強くクローズアップされていた。
作曲家プッチーニは、心の温まるような、慰めと微笑みに満ちた、限りなく優しい音楽を、リュウのために書いている。
このオペラ全体が、希望のない、思いやりも何もない、残酷な暗い大帝国として描かれているのに、ただ一点、リュウだけが、優しいのだ。
このコントラストこそが、プッチーニの最大の本領であると思う。
非人間的な世界のなかの、ほんの小さな、救いのような人間らしい心優しさ――それがリュウなのだ。
中村恵理の声は、大群衆のなかでも、その声に込められた“情”の濃さによって、自然と浮かび上がり、焦点が自然に合うようなところがあった。決して力勝負で前に出ようとせず、細く控えめでも芯は強く、理想のリュウだと思った。
リュウが献身的な愛を捧げながらも、それには見向きもせずに、トゥーランドットに求婚し、3つの謎を解き、見事に勝利を収めるティムールの王子カラフ(テオドール・イリンカイ)は、今回の舞台では、意外な描かれ方をされていた。
カラフは圧政に苦しむ人々の救世主であり、いまは落ちぶれたティムールの復興に野心を燃やし、トゥーランドットを真に愛しているわけではなく、あくまで権力を取り戻すことだけが主眼にある。
これもとても現実味のある解釈である。
本来のストーリーでは、カラフとトゥーランドットの間には熱い愛が芽生え、大帝国はユートピアのように明るい国になってめでたしめでたしとなる(その嘘臭さはこのオペラ最大の問題点でもある)のだが、今回の舞台ではそうはならない。
最後までトゥーランドットが関心を持つのは、カラフの犠牲となって自刃したリュウの悲しさについてである。その結果が、あの衝撃的な結末を導いている。
すぐれた演出とは、正解を示すというよりは、問いかけであることが多い。
たとえト書きを変更してでも、オペラのなかの深層をえぐり出し、観客に「考えさせる」。
「あー面白かった」「いい曲だったね」だけで終わるのではない、その後の人生や世界観に影響を与えるような、啓示に満ちた舞台を作ること。
今回の「トゥーランドット」でのアレックス・オリエの演出した舞台は、その域にまで高められた、稀有のものであったと思う。
最後に、大野和士指揮バルセロナ交響楽団の演奏について。
「トゥーランドット」というと、ガシャーン、ドカーン、といった大音響で圧倒するイメージがあるが、それとは少し異なる行き方であった。声を尊重しつつ、楽器間のバランスに細心の注意が払われていたおかげで、プッチーニの作り出した響きのなかに、どれほど霊妙な味わいと変化に富んだ色彩感があるかを感じさせてくれた。
そもそも、かつてロマンティックな味がたっぷりのお涙頂戴のオペラを書き続けていたプッチーニが、人類最初の大量殺戮戦争としての第1次世界大戦後、新しい機械文明の時代に直面して、考えに考え抜いたあげくに起死回生の新機軸として打ち出したオペラこそが、「トゥーランドット」である。
それは、先述したように、非人間的な巨大なものと、人間的な小さなものとを、強烈にコントラストさせる手法であり、不協和音とロマンティックな旋律とを同居させるドラマのあり方であった。
大野和士の指揮は、しかし不協和音のなかにも、実に刺激的で、味わいに富むものがたくさん含まれているかを、示していた。生のオーケストラから、まだまだこれほど新しい音が聴こえるのだ、という可能性を実感させてくれた。
※2019年7月18日新国立劇場初日所見
林田 直樹
林田 直樹
音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。
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