バレエ界のレジェンド、マニュエル・ルグリ。世界最高峰のパリ・オペラ座バレエ団在籍中はエトワール(階級制の同バレエ団における最高位)として一時代を築き、2009年にその座を退いた後は、ウィーン国立バレエ団の芸術監督に就任(2010)、飛躍的に同バレエ団のクオリティを向上させている。ダンサーとしては、完璧なテクニックと、知性に裏打ちされた緻密かつ豊かな表現力で、非の打ちどころのない大スター。指導者としては、確かな実績を重ね、広く深い尊敬を集めるカリスマだ。
20歳の時に初来日して以来、日本でも絶大な人気を誇り、今年で実に35年の月日が経とうとしている。30代後半で現役引退がちらつき始めるバレエ界にあって、驚異的なロング・キャリアを更新中のルグリが、今回、さらに新たな境地を見せて話題になっている。
3月8日に東京で幕を開けた『スターズ・イン・ブルー』は、ふだんバレエの上演には使用しないコンサートホールを舞台に、ルグリを含めた4人のバレエダンサーによるダンスと、新進気鋭のヴァイオリニストとピアニストによるライブ演奏が並立する”ダンス・コンサート”と銘打っている。ダンサーにとっては、オーケストラピットが無いぶん舞台と客席がグッと近くなるうえに、ふだんはピットにいて見えない演奏家の姿が同じフロアにあることで、音楽の存在をより強く、かつ繊細に感じ取りながら踊ることとなる。
「とても新しく、フレッシュな体験になりました。少数の、しかし非常に優れたダンサーと、輝かしい才能に溢れたヴァイオリニストとピアニスト。この7人だけで、装置も小道具も何もないガランとした舞台で、音楽とバレエとの関係だけに集中するのは、僕の経験においてもビッグ・チャレンジです。それだけに、とてもうまくいったことが本当にうれしい」
興奮冷めやらぬ東京公演の終演直後にインタビューに応じたルグリは、充実と安堵に満たされた晴れやかな表情だ。実は今回、ウィーンでルグリにより才能を開花させた日本人ダンサーの木本全優が、骨折のため出演できなくなり、急遽、ハンブルク・バレエ団を代表するスター・バレリーナのシルヴィア・アッツォーニの参加が決定。そのアッツォーニと、ボリショイ・バレエ団のエース・ダンサー、セミョーン・チュージンが初顔合わせでペアを組む『ソナタ』(振付/ウヴェ・ショルツ)が、オープニング作品となった。二人はそんな事情は露ほども匂わせず、出てきた瞬間から、魂が同じレベルにあるかのように親和的なパ・ド・ドゥ(デュエット)を展開した。
「セミョーンと話しながら彼と踊る相手を探し始めて、ふとシルヴィアのことが思い浮かび聞いてみたら、たまたまこの期間だけ空いていたんですよ。夢かと思いました。初日の15日前のことです。もちろん、二人の相性がいいということには、確信がありました。彼らほどのダンサーになれば、こうしたことには馴れていますから、そこには何の不安もなかったですね」
音楽は、ラフマニノフの「チェロ・ソナタ 作品19」。チェロのための曲を、三浦文彰がヴァイオリンに替え、田村響のピアノと演奏することも、新たな趣向となった。
もうひとつ、ルグリにとって未知の体験となったのが、オルガ・スミルノワとの初共演による新作の世界初演。
スミルノワは、まだ20代の若さながら、天下のボリショイ・バレエの看板を背負うほどのプリマ・バレリーナだ。ボリショイではチュージンとペアを組むことが多く、ルグリに招かれて二人でウィーン国立バレエに客演したり、ルグリ個人のプロデュース公演に参加することはあったが、これまでひとつの作品の中で、ルグリと踊ったことはなかった。ルグリ自身も、まさか彼女と踊る機会が来るとは、まったく考えていなかったという。
「そりゃそうですよ。だって彼女とは、ジェネレーションの差があり過ぎる(注:年齢差はほぼWスコア)。もちろん、オルガは大好きなバレリーナです。彼女は技術だけでなく精神面においても優れているし、すごいオーラの持ち主。新世代の最高のダンサーのひとりで、だからこそウィーンにも招いていたわけですが、ふつうに考えて、ビッグ・ビッグ・ジェネレーション・ギャップがある彼女と僕が、パ・ド・ドゥを踊ることなど、あり得ないことですよ」
そこへ、ルグリと強い信頼関係で結ばれた振付家のパトリック・ド・バナが、ルグリとスミルノワのための新作を提案してきた。映画化もされたアレッサンドロ・バリッコの小説『絹(シルク)』に触発された内容で、19世紀に質のいい絹を求めて日本を訪れたフランス人と、ある武将の膝元に横たわる美女との、触れ合うことも、言葉を交わすこともない恋を描く──というもの。国も文化も異なる二人の間に横たわる距離が、ルグリがこだわる自身とスミルノワとの”ギャップ”に重なり、二人の共演に必然性が生まれるではないか、というわけだ。
ド・バナは、ウィーンにいるルグリとモスクワにいるスミルノワに、それぞれ異なるソロの振付を行った。実際の舞台でも、二人はほどんどの時間、上手(かみて)と下手(しもて)に分かれた状態で踊る。フランスの蚕商役であるルグリは、何度もフランスと日本の遠い道のりを往来し、歩き続けるような反復の動き。謎の美女役のスミルノワは、打掛風の白い薄衣の裾を引きながらの細やかなポアント(トウシューズでの爪先立ち)や、正座し横たわるといった、静謐でミニマルな動き。
ド・バナは、この『OCHIBA』(委嘱:愛知県芸術劇場)と名付けた新作の振付にあたって、日本の古典芸能の動きを意識したという。若いスミルノワにとって、こうしたスローで抑制された動きは困難を伴うはずだが、彼女は、削ぎ落とされた求心的な所作に徹し、白く清らかな最高級シルクそのもののように、内面から神々しいまでの強い輝きを放っていた。
「オルガにとって、とても大変だったと思いますが、パトリックが、動きを最小限に抑えるよう、懸命に彼女に指導していました。ここで動きすぎてしまったら、誰の心にも響かない。少しだけ床を移動したり、チラッと目線を逸らすだけの方が、遙かにマジカルな効果があるのだ、とね。オルガは非常に聡明な人なので、その真意をしっかりと理解していました。だから僕は、彼女が好きなんです!
多くのバレエダンサーは、やたらとジャンプしたり、クルクル回ったりしたがるものですが、オルガは違う。彼女は、まずここでどういう視線を、どこに向けるべきか、ということがわかっているのです。ここが、素晴らしいダンサーと、そうでない人との分かれ目だと思いますね。
バレエは、ステップだけではないんですよ。いちばん大事なのは、ステップとステップの間に何をすべきかということ。オルガは、たぶんこうしたバレエに対する考え方が、僕と同じなのだと思います。この作品がうまくいくかどうか、最初は不安でしたけど、稽古場でオルガのたたずまいを見た瞬間に、『大丈夫。いける!』と思いました」
田村響のピアノが、切なげに反復を繰り返す(音楽はフィリップ・グラスの「メタモルフォーゼⅡ」「Mishima/クロージング」)。二人は、このまま離ればなれのままなのか……と不安が募ってきたころ。ついに、謎の女性の手が男性の肩にそっと触れ、めくるめくひとときが訪れる。ルグリとスミルノワの、幻のように美しく、儚いパ・ド・ドゥだ。
こうして公演の掉尾を飾った『OCHIBA』の世界初演は、二人のバレエダンサーの個性と関係性を活かした、珠玉の逸品に仕上がっていた。
「オルガと踊れるなんて、まさしく夢のようでした。この期に及んで、思いがけない贈り物をもらった気分」と、うれしそうなルグリ。その場に立ち会った多くの観客も、同じ気持ちで余韻に浸っていたことと思う。
「これだけ踊ったのは久しぶりだったけど、身体はどこも痛くないな」 体調も上々の様子。まだしばらくは、余裕で踊る姿を観られそうだ。が、 「年齢も年齢だから、身体とはつねに相談しないと。もしかしたら、今日が僕の最後の舞台だった……ということになるかもしれない。今はとっても快調だけど、一瞬一瞬を確かめながら、楽しんでいる感じですね。先のことは、僕自身にもわかりません」
さしあたって確定しているのは、この公演が、国内であと2回の上演を残しているということ。日本にいてこの機を逃す手は、無いと思う。
取材・文/伊達なつめ 撮影/根田拓也
マニュエル・ルグリ『スターズ・イン・ブルー』バレエ&ミュージック
パリ・オペラ座バレエ団で伝説のエトワールとして活躍し、現在ウィーン国立バレエ団芸術監督を務めるマニュエル・ルグリを中心に、ルグリの信頼厚い実力派バレエダンサーたちが、国際的に活躍する精鋭音楽家たちによる生演奏と共に繰り広げるバレエ&音楽コンサート。
◆東京公演、大阪公演
終了
◆宮崎公演
2019年3月14日(木) メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場)
◆愛知公演
2019年3月17日(日) 愛知県芸術劇場 コンサートホール
伊達なつめ
伊達なつめ
Natsume Date 演劇ジャーナリスト。演劇、ダンス、ミュージカル、古典芸能など、国内外のあらゆるパフォーミングアーツを取材し、『InRed』『CREA』などの一般誌や、『TJAPAN』などのwebメディアに寄稿。東京芸術劇場企画運営委員、文化庁芸術祭審査委員(2017、2018)など歴任。“The Japan Times”に英訳掲載された寄稿記事の日本語オリジナル原稿はこちら
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