#35
CDの時代は終わってしまうのか?

#35 CDの時代は終わってしまうのか?

「以前は年間にCDを100枚以上買っていたのに、最近は全く買わなくなった」などという話をよく聞く。たいがいの重要な音源は、YouTubeで充分事足りるからだ。Amazon Prime Music、Apple Music、Google Play Music、LINE MUSIC、Spotifyといった定額聴き放題の音楽配信サイトもどんどん普及している。クラシック音楽に特化したものでは、充実した検索機能を持つNaxos Music Libraryもある。今やCDプレーヤーさえ持たない人も多い。もはや利便性ではCDは音楽配信にはかなわない。では、本当にCDの時代は終わってしまうのだろうか?

ビジネス上の予測としては、クラシック音楽のリーディング・カンパニーのひとつであり、この業界のネット配信事業における旗頭的な存在でもある、ナクソス・ミュージック・グループ会長のクラウス・ハイマンがこう述べている。
「あと10年ほどはCDはビジネスとして成立するだろう」。
※出典:クラシック音楽情報誌「ぶらあぼ」12月号の対談記事

つまり、2030年頃までは、レコード会社にとって、まだまだクラシック音楽のCDは事業性のある分野だということになる。

問題はその先である。
将来、CDが儲からないとなって、レコード会社は次々とCDから撤退するのだろうか。
そうなったら、彼らは何を売るのだろうか。
配信サイトを通じて、録音された音楽データをバラバラに切り売りするだけの会社になるのだろうか。
ごく少数のLPや、SACDなどのハイレゾ系高音質CDが残ったとしても、だ。

アーティスト側の状況に目を転じてみよう。
2019年は、実を言うと、心に残る自主制作盤CDがいくつも発売された年でもあった。

たとえばその一つ。
この秋に、ギタリストの大萩康司さんが、メゾソプラノ・朗読・翻訳の波多野睦美さん、銅板画家の山本容子さんとコラボレーションして、ファシスト政権時代の波乱のスペインを生きたノーベル賞作家フアン・ラモン・ヒメネス(1881-1958)の詩、戦争とユダヤ人抑圧を逃れてイタリアからアメリカに移住した作曲家マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968)の音楽による、「プラテーロとわたし」全曲盤CDを自らのレーベルからリリースした。それと連動して、理論社からは同名の詩画集も出版された。

これは、白いふわふわした美しい、プラテーロという名前のロバと“わたし”との日々を描いた詩と、それにつけられた音楽による28篇の作品集である。

手前が、CD「プラテーロとわたし」(大萩康司・ギター、波多野睦美・朗読と歌、 MARCO CREATORS MARCO-001/2  キングインターナショナル)。奥が詩画集「プラテーロとわたし」(ヒメネス著、山本容子絵、波多野睦美訳 理論社)
手前が、CD「プラテーロとわたし」(大萩康司・ギター、波多野睦美・朗読と歌、 MARCO CREATORS MARCO-001/2  キングインターナショナル)。奥が詩画集「プラテーロとわたし」(ヒメネス著、山本容子絵、波多野睦美訳 理論社)

しなやかで音楽的な、翻訳された日本語の見事な言葉選びと朗読、それと響き合うギター演奏のクオリティにおいても、伝説の名作の価値を私たちに伝えてくれる完全全曲盤として、これは画期的な価値を持つものである。

こんなにも細部にこだわりぬいたパッケージソフトには、滅多にお目にかかれない。
スペインの古い煉瓦のような赤茶けたオレンジ色のトーンに、布を思わせるようなマット系の厚紙の手触り。格調高く、優しい文章と絵とレイアウト。商品には違いないが、すべてが音楽と詩の価値を伝えるという目的のもと、考え抜かれている。

時間と愛情をこめて、じっくりと作られた、こうした贅沢なパッケージからは、漂ってくるものが違う。大事にそっと長く手元に置きながら、じっくりと五感で味わいたくなる。そして1曲1曲、真剣に耳を傾けたくなる。
これはデザインや読み物も含めたトータルとしての作品というべきものであり、その本質は「アーティストの思いやメッセージが込められている」ということに尽きる。

ちなみに大萩さんは、デザイナー選びや原稿の依頼や校正、原価計算から、さまざまな手続きに至るまで、すべて自身で手掛けたという。紙の種類にもこだわり、装丁の文字の色まで細かく何度も試し刷りし、比較検討したとのことだ。

レコード会社からすれば、「テデスコ? そんなマイナーな作曲家の2枚組だなんて、いまどき渋すぎて売れませんよ。却下」となるのは仕方がない。ただでさえ厳しいこのご時世に、採算度外視の良心的なモノづくりはなかなか難しい。会社である以上、何かというと短期的事業性と効率がシビアに問われてしまうのだから。

そうなってくると、力を発揮するのは、やはり「個人」である。
そのアーティストが、どうしても伝えたい音楽を、納得いくクオリティにまで高め、志を共有してくれる協力者の手を借り、文章もデザインも含めた、パッケージ丸ごとでメッセージを込められるモノにする。アーティストが、贈り物のように気持ちを届ける――そのためには、まだまだCDは有効な手段である。

定額制音楽配信サイトは、確かに便利なものではある。
だがプレイリスト機能、たとえば「朝に聴きたい爽やかなバロック音楽」「夜に聴きたい大人のためのクラシック」というリストを再生すると、そこから流れてくる音楽は、BGMとしては気持ちよくとも、個々の作曲家や演奏家の名前は、どうしても埋もれがちである。

検索窓に、細かいアーティスト名を正確に入力することのできる専門知識を持っているならともかく、初心者にとって、アーティストの名前は、全体性の中に「溶解」してしまっている。膨大な音楽の森の前で戸惑わざるを得ない。

そもそも、手に取って触ることもできなければ、匂いを嗅いだり、しげしげと見つめて目で楽しむこともできない“データ”を、いったい人は深く愛することができるのだろうか。 音楽への愛を深め、アーティストのメッセージを贈り物のように託することのできる手段としてであれば、CD(もしくはその後継となる高音質ディスク)は、2030年以降も残っていく――それが、筆者の希望的観測である。

※ギタリスト大萩康司のブログ
CD『プラテーロとわたし』の成立事情について記している
http://ohagiyasuji.com/2019/09/25/cd%E3%80%8C%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%80%8D%E5%AE%8C%E6%88%90/

※CD『プラテーロとわたし』
大萩康司・ギター、波多野睦美・朗読と歌、 MARCO CREATORS MARCO-001/2  キングインターナショナル
http://www.kinginternational.co.jp/genre/marco-001-2/

※詩画集『プラテーロとわたし』
ヒメネス著、山本容子絵、波多野睦美訳 理論社
https://www.rironsha.com/book/%E8%A9%A9%E7%94%BB%E9%9B%86%E3%80%80%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97

PROFILE

林田 直樹

林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

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