能は、歌舞伎、文楽などと同様、長い歴史と高い技術の蓄積に支えられた日本を代表する古典芸能だ。が、歌舞伎や文楽と同じようなものだとタカをくくると、痛い目に遭う。
歌舞伎や文楽は、現代人には難解に感じられるものが多い一方で、まんが『ワンピース』をゆずのヒット曲を使って舞台化してしまうほどの柔軟性と大衆性を持ち合わせており、実はかなり間口が広い。これに引き換え能楽は、演能の前に解説が付き、ストーリーや見どころを説明するサービスが付くことも多く親切そうでいて、実際に上演が始まると、もう取り付く島がないほどに、何も理解できずに終わってしまうことが珍しくない。
650年の歴史を持ち、理想的な芸術論を展開。つねに時の権力者や財界人に愛される一方、その敷居を決して低めようとはしない能楽に、いったいどうアプローチすればいいのか。能楽界の次代を担うシテ方宝生流宗家の宝生和英さんが、目から鱗の実践的アドバイスをしてくれた。
「まず第一前提として、能楽はいわゆる”エンタテインメント”ではないということを、ご理解いただきたいと思います。 もちろん、真のエンタテインメントはそうではないのですが、ここで言う現代のエンタテインメントの定義は、”心を揺るがすもの”。つまり”驚き”や”感動”といった大きな感情で日常を上書きし、一過性の印象を植え付けるもののことを指します。その意味では、能楽はエンタテインメントの真逆であり、Japanese Opera とか Japanese Musical とする形容は間違っています。
私は音楽家ブライアン・イーノが提唱している”アンビエント”という言葉をよく使うんですが、能はアンビエント・カルチャーに分類されると思っています。アンビエントには、精神の動きを一定におさめるような効能があります。これは美術館や神社仏閣に行く感覚に近いもので、たとえば美術館で素晴らしい絵を見ても、拍手はしませんよね。みんなで一緒に歓声を上げることもなく、見る人それぞれが、自分の楽しみ方を見つける。つまりパーソナルな体験であるところに、大きな特色があります。
教会のミサの役割にも、よく似ていると思います。日曜日にミサに行って、家族のことや仕事のことを、心を落ち着けて考える。これは信仰というよりも、生活を豊かにする工夫のひとつですよね。能を観るのも、同じようなことなんです」
創り手の解釈やテーマを押しつけず、リスナーの心の解放ややすらぎを目指すアンビエント・ミュージックと、能は同じカテゴリーに属するのだと、能楽界の若きリーダーは説く。
なるほど、能の演目は多種多様だけれど、その内容をわかりやすく伝える演出はしないし、烈しい心の葛藤を抱えているはずの主人公も、その情動は能面と装束の奥に秘め、決して明らかにしない。そうすることで、鑑賞者の心が簡単に乱れ動いてしまうことを避け、プレーンかつ穏やかな状態で、さまざまな問いを見つけられる余地をつくる。こうして観る者を精神的に深い次元へと誘うのが、能楽の使命であり価値である、というわけだ。
14世紀に成立して以来、近世以前は為政者に、近代以降は財界人等に愛され庇護されてきたのも、彼らが能のアンビエント効果をうまく使っていた証しだという。
信長、秀吉、家康と能の関係
「能楽は、実はイノベーションの達人なんです。たとえば戦国時代から江戸時代。能楽自体は変わらないのに、三人の為政者の能楽の使い方は、それぞれ異なっていました。
織田信長は、戦国真っただ中にあって死というものがとても身近にあった人です。 死に対する恐怖を持ったまま戦場に出ると、戦死する確率が高まるので、その恐怖を克服するためのマインドフルネスとして、能楽を使いました。
豊臣秀吉の時代は、すでに大きな戦争は無くなっていたので、組み立て式の能舞台を造るなど、秀吉は自分の力を誇示するため、プロパガンダとして能楽を使いました。
そして徳川家康は、全国を平定した後、各地のブランディングの一環として、能楽を推奨しました。おかげで加賀や佐渡など、その土地ごとに特色ある能楽が発展することになりました。こうして100年もしない間に、能楽の役割は次々に変わっていったのです」
つまり、能をどう使うかは社会情勢次第であり、その時代に生きる人たちが、ふさわしい使い方を見つければいいということ。
「現代はどんな時代かというと、かなりいびつだと思います。我々の世代はちょっとバブルを経験しているので、イケイケの狂乱時代の尻尾を見ているし、就職氷河期も知っていて、現在は世界的な経済不況のただ中にいる。ということから、自分の感覚としては平和なんだけど、実際の社会は荒れているという状況で、その結果、エンターテインメントによって、一時的に嫌なことを忘れようとする傾向が強いと思います。
また、「○○ロス」という言葉が流行っていますが、これは何かに依存して自分で考えることを止める状態なので、いちばん危険です。「○○ロス」=他者への依存をなくすには、今の自分に必要なものは何かを、自分で考えることです。そのための環境をつくって差し上げるのが、我々能楽の役割ではないかと思っています」
能を暮らしに取り入れ、政治やビジネスに活用していた先人である武将や財界人に共通するのは、受け身でいることを拒み、能動的におもしろさを見つける姿勢だ。
「彼らは受け身でいることや、押しつけられる文化が嫌いでした。たとえば歌舞伎で町人の粋を表現しようとする場合、『これが町人のカッコよさ』というスタイルを提示しますが、彼らは『それはあなたの意見でしょう』と反発し、とらえ方が自分の自由である能に、おもしろさを見出したわけです。
これは言い換えれば、受け身になった時点で、能はつらく感じるようになるということです。ぜひ好奇心を持って能を観て、積極的に“なぜだろう”、“どういうことだろう”をたくさん生み出していただきたいと思います」
今回の「渋谷能」は、能楽界の各流派の若手が、一夜ごとにテーマに沿った一番の能を披露する全7回のシリーズ。
宝生流は、第一夜に和英さんがシリーズの開幕を祝う『翁』という儀式的な演目で登場した後、7月26日の第四夜に「不条理」をテーマに『藤戸』(シテ方:髙橋憲正)を上演する。戦場において理不尽な理由で武将に息子を殺された母親と、息子自身の霊が、武将に対して恨みをぶつけるというストーリーだ。
「自分の子供を殺された母親と、何の罪も無いのに殺された息子自身。この虐げられた弱者たちの心の内を想像することは、比較的容易ですよね。では、殺した側の武将の気持ちを想像することはできますか? と問う話です。
武将は、息子に情報を提供してもらったのに、他にその情報を漏らされることを恐れて、彼を殺してしまいます。ここで彼を殺さなければ、自分の配下の何百名という兵の命が危険にさらされると思ったのでしょう。
では1人の命と100人の命は、どちらが大切なのか。こういう話、よくマイケル・サンデルが問いかけていますよね。もちろん絶対的な答えなど無いでしょう。でも僕は、それについて考えることが素晴らしいと思うんです。あらゆるケースを予測する力が、私たちには必要ではありませんか。少なくともマイケル・サンデルを好きな人は、『藤戸』をおもしろいと感じてくれると思います(笑)」
まずは、喧噪を離れ、ひとり心を落ち着かせる場として、能楽堂に足を踏み入れてみる。その好奇心と行動力を持つことから、始めてみたい。
取材・文/伊達なつめ 撮影/田里弐裸衣 英語翻訳/田中クレア
宝生和英(ほうしょう・かずふさ)
宝生流第20代宗家。第40回松尾芸能賞新人賞受賞。1986年、室町時代より続く能楽の名門、宝生家に生まれる。2008年、東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業後、同年4月に宗家を継承。今の時代こそ必要とされる能楽の価値を啓蒙するため、伝統的な演出に重きを置くほか、異流共演多数出演、復曲、公演演出なども積極的に行う。また、マネジメント、経営業務も行い、香港、イタリアをはじめとする海外文化事業にも力を入れている。趣味は映画、写真、スキューバダイビングなど。
Bunkamura30周年記念 セルリアンタワー能楽堂「渋谷能」
約650年の歴史を持つ芸能“能楽”の未来を担う若手能楽師が五流儀の垣根を取り払い、渋谷に集結する。事前講座やアフターパーティなどの関連企画にも注目。
◆日程・内容 第一夜:3月1日(金)能「翁」宝生和英(宝生)/シテ方五流出演者によるトーク 第二夜:4月26日(金)能「熊野」中村昌弘(金春) 第三夜:6月7日(金)能「自然居士」佐々木多門(喜多) 第四夜:7月26日(金)能「藤戸」髙橋憲正(宝生) 第五夜:9月6日(金)能「井筒」鵜澤光(観世) 第六夜:10月4日(金)能「船弁慶 白波之伝」宇髙竜成(金剛) 第七夜:12月6日(金)舞囃子「高砂 序破急之伝」本田芳樹(金春)/舞囃子「屋島」観世淳夫(観世)/舞囃子「雪 雪踏之拍子」金剛龍謹(金剛)/舞囃子「安宅」和久荘太郎(宝生)/舞囃子「乱」佐藤寛泰(喜多)
◆開演時間 各回19:00開演(18:30開場)
◆問い合わせ
セルリアンタワー能楽堂 03-3477-6412 <平日10:00~18:00/土日祝14:30~17:30>
伊達なつめ
伊達なつめ
Natsume Date 演劇ジャーナリスト。演劇、ダンス、ミュージカル、古典芸能など、国内外のあらゆるパフォーミングアーツを取材し、『InRed』『CREA』などの一般誌や、『TJAPAN』などのwebメディアに寄稿。東京芸術劇場企画運営委員、文化庁芸術祭審査委員(2017、2018)など歴任。“The Japan Times”に英訳掲載された寄稿記事の日本語オリジナル原稿はこちら
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