僕は音楽が素晴らしい役割を果たしている映画にはどうしても惹かれてしまう。ポーランドの映画『COLD WAR あの歌、2つの心』はまるで音楽がもうひとりの主役と言えるほど素晴らしい貢献をしていた。そして、その音楽はあまりに美しく、エモーショナルだった。
東西冷戦下の1950年代にポーランドで出会った男女がソ連の支配下に置かれたポーランドの状況に翻弄されながら、愛し合い、時にぶつかる模様を描いたこの映画は『イーダ』でアカデミー賞の外国語映画賞を受賞したパヴェウ・パヴリコフスキが監督・脚本を手掛けている。カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞し、アカデミー賞の監督賞、撮影賞、外国語映画賞にノミネートされるなど、高い評価を得た。
物語としては、ポーランドの音楽舞踏学校で出会ったピアニストのヴィクトルと歌手志望のズーラは運命に翻弄されるようにポーランド、パリ、ユーゴスラビアで再会と別れを繰り返すラブストーリー。その物語の秀逸さから、映像の美しさと繊細さまで、隅から隅まで文句のつけようのない素晴らしさなのだが、僕がこの映画で特に惹かれたのは、その2人の心の動きや関係性、その時に彼らがおかれた状況などを限りなく言葉を使わずに説明していることだ。それらの多くは音楽が教えてくれるのがこの映画のすごさだと僕は考えている。
例えば、ポーランド各地で歌われていたフォークソングが瑞々しく、美しく、そして、生き生きとした音楽として表現される一方で、ソ連やポーランド政府が押し付けるように歌わせる政治的な歌はズーラが所属するポーランドの民族合唱舞踏団が高いスキルで完璧に歌い、奏でていても、その音楽からは生命力が失われ、悲しみさえ漂っている。また、西側の音楽でもあるジャズは自由を象徴する音楽として鳴っている。ジャズが鳴るとき、ポーランドの外にいること、もしくはポーランドの外への憧れが強く浮かび上がる。冷戦下において、誰もが感情を表に出さずに指示に従いながらも、表情の下にある感情をミニマムな演技で表現するズーラ役のヨアンナ・クーリグやヴィクトル役のトマシュ・コット。そんなあらゆる場面で彼らの心の中にある感情はまるで音楽が代弁しているようにそっと音により示されていく。
それは2人の関係性に関しても同じだ。その中でカギとなるのが、ヴィクトルが演奏し、ズーラが歌った3つの曲だ。ポーランドのフォークソング「2つの心」という曲と2人のフランス・デビュー曲となるヴィクトルのオリジナル曲でフランス人の詩人が詞をつけた「Loin de toi」。これらの2人の共演曲のジャズ・スタイルによるアレンジが2人の関係性のメタファーになっている。更に細かく言えば、2人が一緒に演奏するシーンでは、シンガーとピアニストの恋模様だけでなく、それぞれの人間性までもが、これらの曲の歌と即興で行われる伴奏のありかたを通して描かれている。
「2つの心」はポーランド語の原曲「Dwa Serduzka」、フランス語による歌詞の直訳「Deux Coeurs」の2パターンがあり、その2種類の詞をズーラが歌い分ける。ヴィクトルを中心とした同じような編成のバンドによる異なるアレンジと演奏で登場する。
例えば、ズーラの歌に対して、ヴィクトルがどんなアレンジをつけ、自身のピアノでどんなハーモニーを乗せながら伴奏をするのかを見ていくと、それぞれが何を示しているかが見えてくる。
彼女の歌のフレーズに対してまるでひとことずつ答えていくように親密にコードを重ね、そのタッチの一つ一つがエモーショナルな「Dwa Serduzka」ではヴィクトルのピアノソロはない。パリでの活動後、ピアノのスタイルもタッチも変わっていて、そもそも音色が別物になり、自身のピアノを歌と並走させるように奏でる「Deux Coeurs」ではいかにもなモダンジャズ・スタイルの典型的なソロパートがあり、ピアノソロは最も目立つ場所に配置される。
そして「Loin de toi」では音色は軽くなりピアノの存在は薄れ、歌に対する伴奏というよりはホーンとの関係性の中でアンサンブルの一部になり管楽器に埋もれている。マイルス・デイヴィスやシネジャズの模倣のようないかにも「フランスっぽい」アレンジの凡庸なバラードでもある。 「Loin de toi」はズーラのフランス・デビュー作として発表されるが、まさにレコード=商品のための「仕事」のような演奏に聴こえる。 ヴィクトルに関しては、アレンジから、ピアノのスタイル、音色や歌との関係性まで全てが変わり続けている。
ズーラはその歌詞の違いに困惑し、フランス語ではその情感をフルに発揮できないながらも、彼女のそのスタイルには揺るぎがない。「Dwa Serduzka」では慣れ親しんだポーランド語の詞で歌う際の発音や発声がもたらす情感の美しさが別次元だが、それでもフランス語による2曲でさえも、自分のスタイルで丁寧に歌いきっていて、 彼女自身の歌唱スタイルへのこだわりだけでなく、ひとりの人間としての芯の強さが歌を通しても表現されている。
彼女がデビュー作の「Loin de toi」に満足していないのはヴィクトルとの関係性だけの問題ではなく、あらゆる意味での完成度の低さゆえだろう。彼女は売るために自身を曲げるような「商品」を求めていない。それは長年、東側ポーランドの歌劇団で上から強いられて望まない音楽を歌ってきた経験から、「縛られない表現」の美しさを知っているから、とも言えるのかもしれない 。
この二人の違いやそれぞれの変化がそのままストーリーにも直結している。つまり、音楽はもうひとりの登場人物とも言っていいほどに、繊細に物語を「演じている」のだ。
ちなみにここでのジャズに関してもう少し書いておくと、ヴィクトル以外のフランスのミュージシャンはいかにもアメリカ経由のハードバップ的な演奏をしている。ただ、ショパンを生んだクラシック大国でクラシック・ピアニスト大国でもあるポーランド出身のヴィクトルのピアノはビル・エヴァンスを思わせるクラシックを通過したモーダルなジャズのスタイルで、実に「ヨーロッパ的」なジャズ・ピアニストのものだ。フランスで映画に対して音楽をつける仕事をしている彼に関してもロマン・ポランスキー監督の名作群の音楽を手掛けたジャズ・ピアニストのクシシュトフ・コメダを想起させる。ある場面でヴィクトルが感情をあらわにして、即興演奏で弾きまくるシーンがある。そこで弾かれるピアノのスタイルもブルースやゴスペルなどが出てくるアメリカのミュージシャンのそれとはまったく違うもので、ヨーロッパのクラシックや現代音楽を経由したフリージャズを思わせるもの。それはまさに1960年代半ばにポーランドの国営レーベルのMUZAがリリースしていたPolish Jazzシリーズの作品群そのものだ。
ここでの音楽はジャズひとつをとっても、ポーランド的だったり、アメリカ的だったり、フランス的だったり、あらゆるディテールをどこまでも丁寧に突き詰めてある。もうひとりの主役のような音楽への執念とも言えるこだわりがこの映画を特別にしているのだ。新しい音楽映画の傑作が生まれたと言っても過言ではないだろう。
『COLD WAR あの歌、2つの心』
監督:パヴェウ・パヴリコフスキ 脚本:パヴェウ・パヴリコフスキ、ヤヌシュ・グウォヴァツキ 撮影:ウカシュ・ジャル
出演:ヨアンナ・クーリク、トマシュ・コット、アガタ・クレシャ、ボリス・シィツ、ジャンヌ・バリバール、セドリック・カーン 他
2018年/原題:ZIMNA WOJNA /ポーランド・イギリス・フランス/ モノクロ /スタンダード/5.1ch/88分/日本語字幕:吉川美奈子 配給:キノフィルムズ
ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開
柳樂 光隆
柳樂 光隆
1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。
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