世界の今を照射する――みたいな先鋭なテーマ性を打ち出すよりも(テーマは一応毎年あるらしいのだが)、この街に身を置くこと自体が貴重な体験となる芸術祭。でも今年はしっかり話題作もあって、出来すぎなくらいでした。
シビウ国際演劇祭――と日本では訳されているけれど、演劇だけでなく、ダンス、各種音楽のコンサート、大道芸、コンテンポラリーサーカス、屋外での大規模・小規模パフォーマンスなど、多種多様なパフォーミングアーツを集めたフェスティバルだ。
人口17万人弱の小さな街の各公共施設や通りや広場で、午前中から深夜まで、有料・無料のパフォーマンスやワークショップ、リーディング、レクチャー等が繰り広げられる。
個人的に「シビウに来た」実感が味わえて好きなのが、教会でのコラール(賛美歌)コンサート。今回は数あるシビウの教会の中でもひときわ荘厳な、ルーマニア正教会大聖堂で、所属の聖歌隊による男女それぞれの合唱を堪能した。
終演の区切りがわからずボーッと座っていたら、次々と人が入れ替わり出して、いつのまにか地元の信徒でいっぱいになり、奉神礼(という言い方でいいのだろうか)が始まった。
周囲の女性はみな、色とりどりのスカーフで髪を被ってる。神聖さと、生活の一部らしいカジュアルさが同居する祈りの空間は、異教徒にとっても、不思議と居心地がいいものだった。
大聖堂のあとは、そこから徒歩4~5分圏内のホールで、コリン・ダン&シディ・ラルビ・シェルカウイ振付・出演の『セッション』。
シビウ国際演劇祭には、いわゆる「世界中から注目を集める旬のアーティストの新作をいち早く上演する」といったことに血道を上げるイメージは特に無かったので、この人気アーティストの未知の作品を見つけた時は、ちょっと色めき立ち、半信半疑になった。
シェルカウイは超多忙な振付家で、つい数か月前にも、映像が世界配信される英国ロイヤル・バレエの公開リハーサルの場に現れず、振付助手に任せていたくらい。
今回も振付だけで、ダンサーは別の人かも……と落胆しないよう心構えをして観に行ったら、幸いにも、しっかり本人が現れた。
アイリッシュ・ダンスのコリン・ダンが発する高速で精密なステップとその音に、シェルカウイは自らの手や耳や身体でことごとく反応しながら、そのメカニズムを解析する勢い。
音楽担当の2人のミュージシャンも加わり、4人全員が歌い、踊り、楽器を演奏して、平等な関係で音と戯れる姿が好もしく、ダンとシェルカウイのデュエットや、各自のソロも見応え十分。身体と音の関係に焦点を当てた、ミニマルかつ根源的で、底抜けに楽しい佳品だった。
シビウ国際演劇祭の「顔」である、ルーマニアの巨匠シルヴィウ・プルカレーテの作品は、前編で触れた『ファウスト』のほか、水を張った特設プールを舞台に展開するスペクタクル『メタモルフォーゼ』、この演劇祭の創設者キリアックが出演する『ゴドーを待ちながら』、そして、歌舞伎にインスパイアされ、花道がある劇場を新たに設けて創作した『スカーレット・プリンセス』の3作品。
鶴屋南北の『桜姫東文章』をプルカレーテ流に翻案して昨年初演した『スカーレット・プリンセス』は、今年度のルーマニアの主要演劇賞The UNITER Gala 2019でも3部門で受賞した話題作で、来日公演も計画されている(内容については機会を改めて)。
そもそもプルカレーテと歌舞伎との接点は、2008年にシビウ国際演劇祭で上演された、十八代目中村勘三郎率いる平成中村座の『夏祭浪花鑑』に始まる。こうしてみると、シビウと日本の演劇界の間には、時間をかけて築きあげられた、強力な絆的インフラが存在することを実感する。
今回は会期全10日間のうち3日だけの滞在だったけれど、それなりに充実した体験ができた気がする。
シビウ国際演劇祭は、テーマにそった話題の作品を効率的に観てまわるタイプのフェスとは、趣を異にする。
シビウという場所に来ることで初めて得られる独自の魅力を味わい、日本とのかかわりの深さに意味を見い出せる、とてもユニークな国際芸術祭だと、改めて思う。
伊達なつめ
伊達なつめ
Natsume Date 演劇ジャーナリスト。演劇、ダンス、ミュージカル、古典芸能など、国内外のあらゆるパフォーミングアーツを取材し、『InRed』『CREA』などの一般誌や、『TJAPAN』などのwebメディアに寄稿。東京芸術劇場企画運営委員、文化庁芸術祭審査委員(2017、2018)など歴任。“The Japan Times”に英訳掲載された寄稿記事の日本語オリジナル原稿はこちら
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