元号が変わったので平成の振り返りをしてみようかと。平成初頭=1990年代はJポップだとフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイブなどの渋谷系、イギリスだとオアシスやブラーなどのブリットポップ。そんな時代にジャズはDJがプレイするおしゃれな音楽になっていた。
世の中が平成を振り返っているので、僕なりにジャズにおける平成とはなんだったのかを考えてみたときに、最初に浮かぶのは平成=「DJの時代」というイメージだ。
ジャズの初録音といわれているオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドの「Tiger Rag」が1917年で、これが大正5年。ビバップが生まれた1940年代が昭和10年代で、マイルス・デイビスが『Bitches Brew』をリリースしたりしてジャズがエレクトリックになっていくのが昭和45年(1970年)。モダンジャズは昭和の音楽だった、とも言えるだろう。(しかし、元号で考えると不思議な感じになるな)
平成元年が1989年なので、そこからのトレンドを考えるとヒップホップやテクノ、ハウスなどのクラブミュージックが大きくなり、そこに呼応するようなジャズっぽいクラブミュージック=「クラブジャズ」が人気になって、メディアに盛んに取り上げられたことはかなり大きい。
United Future Organizationのヒット曲「Loud Minority」が平成3年(1992年)、Kyoto Jazz Massiveが結成されたのが平成2年(1991年)なので、クラブジャズは平成の幕開けと共に始まったと言ってもいいだろう。
それらとちょうど同時期にQティップのA Tribe Called Quest、DJプレミアのGang Starr、Pete Rock & C.L.Smooth、De La Soulなど、ヒップホップのグループも過去のジャズをサンプリングした曲をリリースしていて、Gang StarrのGuruはジャズにフォーカスしたヒップホップのプロジェクト「Guru’s Jazzmatazz」として1993年にアルバムをリリースしたりしている。
つまり平成の初頭はジャズっぽい雰囲気を持ったクラブミュージックがいろんな場所から出てきていた時期でもある。
1980年代前半にイギリスでハードバップやアフロキューバンなどのジャズをDJがかけて、それに合わせてダンサーが躍るムーブメントが生まれて、そこから広がったジャズをかけるDJの文化が、ジャズをサンプリングするヒップホップなどとも結びつき、一気に広がったというのもあるだろう。平成初期はDJカルチャーの広がりから、CDの普及で忘れられかけていたヴァイナル=アナログレコードをヒップなものとして若者が買い始めた時代でもあるとも言える。
1990年代には前述のUnited Future OrganizationやKyoto Jazz Massiveをはじめ、様々なDJが踊れるジャズを集めたコンピレーションCDをリリースしたりして、中でも小林径の「Routine Jazz」シリーズが人気を集めたりもしたし、橋本徹による「Free Soul」シリーズにもジャズの曲が混じっていたりもした。
ジャズの名門レーベルのブルーノートからUS3というグループがデビューし、1993年にハービー・ハンコックの「Cantaloop」をサンプリングした 「Cantaloop (Flip Fantasia)」が大ヒットし、彼らのファースト・アルバム『Hand on the Torch』はブルーノートで最も売れたアルバムとなった(しばらくしてノラ・ジョーンズが「Come Away With Me」が更新する)。ブルーノートがDJ向けのコンピレーションCDを多数リリースしたこともクラブシーンを刺激した。
平成前半の雑誌や本を見ると、ジャズの特集に寄稿しているのはジャズ評論家ではなく、クラブジャズやヒップホップのDJたちが多い。彼らが見つけてきた踊れるジャズのヴァイナルを紹介する記事が一気に増えた。そして、そこで紹介されているDJ向けのアルバムがどんどんCD化されて行った。
平成はCDショップやレコードショップの店頭をクラブジャズが席巻していた時代だった。
柳樂 光隆
柳樂 光隆
1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。
otocoto
otocoto