#32
ベルリン・フィルが世界最高と称される理由~メータ指揮のブルックナー「交響曲第8番」を聴いて

#32 ベルリン・フィルが世界最高と称される理由~メータ指揮のブルックナー「交響曲第8番」を聴いて

オーケストラ音楽のなかで、もっとも重要なレパートリーのひとつが、後期ロマン派の時代にウィーンで活躍したブルックナーの交響曲である。ドイツ語圏以外では、特に日本で人気の高いこの作曲家について、メータ指揮によるベルリン・フィルの来日公演を通して感じたことを記してみたい。ベルリン・フィルの近況や特徴についても、簡潔に、重要なポイントに触れた。

神々しいものに触れたい、大きな世界に包まれたい。
アントン・ブルックナー(1824-1896)の交響曲が愛されているのは、そんな気持ちに応えてくれる作品群だからかもしれない。

未完成に終わった「第9番」まで、ブルックナーの交響曲はどれも、大聖堂のような威厳をたたえている。奥深い森のような神秘性を感じる人もいるだろう。

ブルックナー自身、19世紀に生まれた中世人と言われるほど、敬虔なカトリック信者であり、すぐれた教会オルガニストでもあり、そうした古くからの世界観・音楽観を、オーケストラによって伝えようとする人だった。

大聖堂の雰囲気を写真のみで知るのが難しいのと同じように、ブルックナーの交響曲の魅力を体感するためには、「ちょっと聴いてみる」というだけでは足りない。実際にその内部にどっぷりと深く入り込まなければならない。
ある時間と全体を体験することが重要なのだ。

ズービン・メータ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演で、ブルックナー「交響曲第8番」(11月21日、サントリーホール)を聴いた。

メータの指揮は、ちょっとしたうごめきのような隅々まで歌と呼吸に満ち、しかも誇張のない清潔さがあった。無用の念押しはせず、サッと切り上げる飾り気のなさ。それゆえ、語り口は誠実。この日の演奏は、特に第1、2楽章で大人の抑制を感じさせた。

メータ指揮ベルリンフィル、11月21日サントリーホールにて。コンサートマスターは樫本大進、撮影:堀田力丸 
メータ指揮ベルリンフィル、11月21日サントリーホールにて。コンサートマスターは樫本大進、撮影:堀田力丸 

いよいよベルリン・フィルがその本領を発揮したのは、第3楽章アダージョである。
30分近くかかるこの長大な音楽は、「天国的」とも言われるスケールを持っているが、それゆえ聴き手にとっても、集中を切らさないのが難しいところがある。

だが、この日のメータ指揮の演奏は、時間のたつのも忘れるくらいに充実していた。瞬間、瞬間に驚きがあった。なぜだろうか。

その理由のひとつが、内側の音が全部はっきり聴こえたということがあると思う。
これはベルリン・フィルの優れた特徴でもあるが、オーケストラの響きのなかで、目立たない内側の音さえも、ぐいぐいと主張して前に出てくるのだ。
表側の音ももちろん強力だから、そこに一種のせめぎ合いが生まれ、アンサンブルの緊迫感が違ってくる。

たとえば、第3楽章の後半に出てくる全合奏のクライマックスで、シンバルが二度打ち鳴らされる頂点がある。
それは、単に音が大きい音で全員が演奏している、というだけでは決してなかった。

堂々たるリードを示していた第1コンサートマスターの樫本大進も、卓抜なホルンのシュテファン・ドールも、クラリネットの巧者ヴェンツェル・フックスも、知的なオーボエのアルブレヒト・マイヤーも、現代フルート界の王者エマニュエル・パユも、名だたるスーパースター軍団の面々が、くの字に身体を折り曲げんばかりに、全身全霊を込めて身を捧げ、命がけで、ひとつの響きを作っているのだ。

それは、あたかも小宇宙の全ての星々が、一斉に強い光で輝き始めたかのような偉大な瞬間であった。この神々しさは、ブルックナーにとっては神の存在証明のようなものではなかったろうか。

ブルックナーは、光の頂点だけでなく、闇の深淵も見せてくれる作曲家だ。
不安、懐疑、怖れ、地獄。そういったものが渦巻いている交響曲だからこそ、まばゆいクライマックスはかけがえがない。

第8交響曲のアダージョの特徴は、ブルックナーとしては珍しく用いられるハープが夢のような余韻を作り出すというだけではない。そこに“憧れ”と“ためらい”が含まれているからこその高貴さ、ということもあるのではないだろうか。

メータの指揮は、このアダージョがもっとも静かになるところ――弦だけで、ささやくようなピチカートと、うっとりとしたため息のような、言葉のない歌が消えかけていく、あの箇所――で、いまにも音楽が止まりそうなくらいにテンポを落として、稀に見るような静寂を作り出した。
2000人の聴衆が、身じろぎもせず、静けさに耳を傾けているあの時間こそ、ブルックナーの真価である。

メータは1936年インドのボンベイに生まれ、ウィーンで学んだ指揮者である。
1970年代はマッチョでかっこいいイメージで、カラヤンの後継者格として、小澤征爾やクラウディオ・アバドと肩を並べる人気指揮者だったが、根には熱いものを持っていても、本質的には穏和で控えめな、自然を愛するマエストロである。
メータで興味深いのは、ブルックナーとマーラーへの取り組みの違いである。ブルックナーは若い頃から9番や8番など晩年の作品もしばしば指揮してきたが、マーラーに関しては7番以降の後期交響曲には慎重な姿勢を崩さなかった。1990年代初めに筆者がその理由を尋ねたところ、「まだ自分は未熟だからマーラーの後期の交響曲に取り組むには早すぎる」と答えたことがあった。このあたり、メータの謙虚さがよく出ているエピソードである。
おそらくメータにとってブルックナーとは、成熟してからようやく挑戦する音楽ではなく、若くから自分自身の一部として馴染んだ、欠かせない音楽になっているのだろう。

メータとベルリン・フィルの共演は1961年以来、毎シーズン必ずおこなわれており、これまでの7人の首席指揮者・音楽監督(ビューロー、ニキッシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバド、ラトル、ペトレンコ)以外では、戦後の混乱期を共にしたチェリビダッケに匹敵する大切な指揮者として、楽団からは特別な尊敬を受けているという。

ベルリン・フィルが今秋リリースした「ブルックナー:交響曲全集」(国内盤ボックスはキングインターナショナルから発売)についても、触れておこう。
これは、近年のライヴから、8人の指揮者たちとの演奏が収録されているもので、そのラインナップを簡単に紹介すると、

第1番:小澤征爾(2009年1月)
第2番:パーヴォ・ヤルヴィ(2019年5月)
第3番:ヘルベルト・ブロムシュテット(2017年11月)
第4番「ロマンティック」:ベルナルト・ハイティンク(2014年3月)
第5番:ベルナルト・ハイティンク(2011年3月)
第6番:マリス・ヤンソンス(2018年1月)
第7番:クリスティアン・ティーレマン(2016年12月)
第8番:ズービン・メータ(2012年5月)
第9番:サイモン・ラトル(2018年5月) ※4楽章完成版

となっている。ここから判るのは、ベルリン・フィルがいかにさまざまな指揮者と、新たな、多様なブルックナーを演奏し続けているかということである。

近年のベルリン・フィルは、既存のレコード会社とは離れて、楽団自主制作レーベルからレコーディングを次々とリリースしており、CDやブルーレイ音声・映像ディスクのみならず、分厚い資料的価値の高い美麗なブックレット、ハイレゾ・ダウンロード用のクーポンコード付きの豪華ボックスが続いている。
インターネットでライヴ&オンデマンド映像配信をおこなう「ベルリン・フィル・デジタル・コンサートホール」は、10周年を迎え、無料登録者は100万人、有料会員は3万5千人を数える(そのうち日本人会員は、首位ドイツに次いで、アメリカ合衆国とともに第2位で、約5分の1の占有率だという)。
このところ来日公演のたびに、ベルリン・フィルは自ら主催する記者会見を開いている。日本人の広報担当者もおり、プレスを通して日本の聴衆にも、日本語で伝わるように、こまやかにメッセージを発信してきている。

こうしたことから伝わってくるのは、ベルリン・フィルが、マネージャーやレコード会社に任せきりにせず、音楽家たちは演奏のみならず運営のさまざまな局面において、自ら積極的に発言・行動しようとする、「意志を持つ」オーケストラであるということだろう。

すぐれたオーケストラはみな、ロンドン響もコンセルトヘボウもシュターツカペレ・ドレスデンもそうだが、必ず自律的な意志を持っているものだ。ベルリン・フィルは、それがもっとも顕著な形で前面に出ているオーケストラかもしれない。

最後に、記者会見の席上で興味深い発言があったのでご紹介しておこう。
今シーズンから就任した首席指揮者キリル・ペトレンコについて、彼がバイエルン州立歌劇場音楽監督から離任したのち、「今後はベルリン・フィルとのみオペラをやることになるだろう」と楽団幹部が誇らしく明言したのである。
これは、手っ取り早く言えば、バイエルンからペトレンコをもぎ取ったに近い。天才的なオペラ指揮者として名高いペトレンコに、ベルリン・フィルがいかに執着しているか、「われわれのマエストロ」として期待しているかが、うかがえたのである。

※ベルリン・フィル「ブルックナー交響曲全集」日本向け公式サイト
https://www.kinginternational.co.jp/bphr_bruckner/

※「ベルリン・フィル デジタル・コンサートホール」日本向け公式サイト
(年末年始特別キャンペーンとして、12か月利用券購入者全員に、ペトレンコ指揮のベートーヴェン「第9」の特典CD&DVDをプレゼント)
https://www.digitalconcerthall.com/ja/home

※次回来日は2020年6月下旬。東京オリンピック・パラリンピック2020の連携イベントとして、東京・春音楽祭主催による、グスターボ・ドゥダメル指揮ベルリン・フィルの特別コンサートが開催される。
最大の話題は、6月27日(土)に新宿御苑・風景式庭園で1万人規模の野外コンサートとして、ベートーヴェン「第9」が演奏されることである(入園料以外は無料)。大空の下、平和のメッセージが高らかに響くのが、楽しみである。
https://www.tokyo-harusai.com/bpo2020/

PROFILE

林田 直樹

林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

MEDIA

otocoto