ソウルで、噂のイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出の大作『ローマ悲劇』を観てきました。演劇としてのクオリティの高さは言うまでもなく、観客を巻き込む方法のスマートさと大胆さに呆然。観劇というより、事件に遭遇したような体験でした。
イヴォ・ヴァン・ホーヴェは、ベルギー出身で、現在オランダ・アムステルダム市立劇場を本拠とするInternational Theatre Amsterdam(ITA)の芸術監督。演劇とオペラを手がけ、世界的規模で圧倒的な人気を誇る演出家だ。
ヨーロッパで評価の高い演出家が、ブロードウェイの商業演劇や、自国圏にこだわる英国演劇界で受け入れられるケースは非常に少ないが、ヴァン・ホーヴェは、その両方で絶大な支持を得ている、ほとんど唯一のヨーロッパの演出家と言っていい。もうすぐブロードウェイでは、彼によるまったく新しい演出(振付はアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル)の『ウエスト・サイド・ストーリー』が開幕することになっている(12月10日プレビュー開始。2020年2月6日に正式開幕予定)。
ヴァン・ホーヴェがITAで手がけた作品は、レパートリーとしてアムステルダム市立劇場で上演されるだけでなく、殺到するオファーに応じて、世界中を巡回している。常時上演できる作品は約30本あるそうで、そのなかでも2007年初演の『ローマ悲劇』(Roman Tragedies)は、もっとも人気が高く、かつ規模の大きい話題作で、傑作の誉れ高い。先週ついに、アジアで初めてソウルで上演されたその超大作を観てきた――というより、体験してきた。
『ローマ悲劇』は、シェイクスピアによる古代ローマを舞台にした戯曲『コリオレイナス』『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』の3作を、休憩もろくに入れず、5時間40分で一挙に上演してしまうという、無謀とも思えるプロジェクトだ。
『コリオレイナス』は、共和制初期のローマが舞台。武勇を誇るが、マザコンなうえに民衆を露骨に見下すコリオレイナスが、ローマを追放され、仕返しにローマに攻め入り和平交渉におよぶが、結局殺されてしまうまでを描く。
『ジュリアス・シーザー』は、それから約400年後の共和制末期の話。ローマに凱旋したシーザーを尊敬しながらも、影響力の大きさに危惧を抱いたブルータスが、仲間とともにシーザーを暗殺。民衆に説明を行い理解を得るも、直後のシーザーの寵臣アントニーの名演説に扇動された民衆により、形勢が逆転。ブルータスは死に追いやられてしまう。
『アントニーとクレオパトラ』は、その後のアントニーと伝説の美女の、大人のラブストーリーだ。名将で鳴らしたアントニーも、今はクレオパトラとの恋愛に耽溺し、エジプトで腑抜け状態の日々。ローマの危機を知り、やっと帰国し政略結婚するが、結局はまたクレオパトラとよりを戻す。最終的には、二人は互いを想いながら、別々に自害する。
いずれも、帝政ではなく共和制時代のローマが舞台になっている点で共通しており、キーワードは政治と「民衆」ということなのだと思う。というわけでヴァン・ホーヴェは、この三部作を観に来た観客を、民衆役に見立てて舞台を進めてゆく。もっとも、このアイデア自体は、取り立ててめずらしいものではない。『ジュリアス・シーザー』などでは、客席に俳優が入り込んだり、観客に舞台を囲ませたりする演出は、しばしば見られるもの。この『ローマ悲劇』も、舞台に観客が上がることを促す点では、似たような流れにあるのだが、そのやり方が、前代未聞の大胆不敵さなのだ。
観客は、最初と最後の場面以外は、自由に客席と舞台とロビーの間を移動することができる。上演中の飲食も可能で、舞台袖と後方には、ドリンクやスナック類の売店まで設置されている。スマホの電源を切る必要もないばかりか、上演中の写メ(←死語?)やSNSへの投稿も思うまま。なんなら出演中の俳優と舞台上で記念撮影したり、舞台を生配信することさえお咎めなしで、充電ブースまで用意されている。撮影はスマートフォンなどモバイル端末のみ、SNSへの投稿・シェアは個人アカウントのみ、という制限はあるものの、ほぼ野放しというか、超積極的なSNS奨励状態だ。
客席で観るか、舞台に上がって観るか。さらに舞台上も広いので、位置取りする場所によって、見え方はかなり異なる。その点は、舞台上のあらゆる位置にテレビモニターが置かれていて、観客は最寄りのモニターを見て、ドラマの中心的展開と、字幕(この時はオランダ語上演、ハングル字幕)によるせりふの意味を会得することでフォローできる。さらに舞台上方に映画館のような大きなスクリーンが時おり出てきて、モニターと同じ光景のほか、下方の電光掲示板から、作品についてのちょっとした状況説明や、世界の最新ニュース、さらに「アントニーの死まであと15分」などといった情報までが、随時流される仕組みになっている。
イヴォ・ヴァン・ホーヴェは、シェイクスピアだろうと往年の名作映画だろうと、設定をリアルタイムに置き換え、いま私たちの日常に起きていることとして、ヴィヴィッドに舞台に描き出すのを身上とする演出家だ。それは承知しているつもりだったけれど、いやはや、ここまで大胆な行動におよぶとは。
観劇というのは、音を立てない、後ろの席の人に考慮して前のめりにならないなど、それなりに制約の多い行為だ。そこを敢えて開放することで、自由を与えられた観客が自主的に取り始める行動を、そのまま芝居に取り込むとういう視点が鋭い。スマホを手にした人間は、実に傍若無人。コリオレイナスが、シーザーが、ブルータスが死んでゆくたびに、観客はその場に群がり、躊躇なくシャッターを切るのだから。
こうして、紀元前ローマの政治家と民衆との関係が、21世紀のポピュリズム台頭と地続きにあることが、手に取るように明快に、証明されてしまった。
かくいう私めも、場面転換になるたびに位置を変え、恥ずかし気も無く舞台前面に陣取って、アントニーの演説動画を間近で撮影していた。通り過ぎるアントニーに目線までもらい、家宝ができたと嬉々としていたのに、終演後にチェックしたら、動画が撮れていなかったというお粗末(泣)。演出家のもくろみ通り、実に自然にリアルな衆愚となり切って、上演に貢献してきたのだった。来年の日本公演では、もうちょっと賢い民衆を目指したいと思う。
※来年のITA『ローマ悲劇』来日公演については、追って詳細が発表される予定。
伊達なつめ
伊達なつめ
Natsume Date 演劇ジャーナリスト。演劇、ダンス、ミュージカル、古典芸能など、国内外のあらゆるパフォーミングアーツを取材し、『InRed』『CREA』などの一般誌や、『TJAPAN』などのwebメディアに寄稿。東京芸術劇場企画運営委員、文化庁芸術祭審査委員(2017、2018)など歴任。“The Japan Times”に英訳掲載された寄稿記事の日本語オリジナル原稿はこちら
otocoto
otocoto