#05 輝くような顔、顔、顔に出会う

#05 輝くような顔、顔、顔に出会う

『ラ・フォル・ジュルネTOKYO2019』の初日5月3日、東京国際フォーラムに出かけて、二つのコンサートを聴いた。そこで感じたみずみずしい気持ちを、まず書いておきたい。

思い出したぞ!
忘れていた、あの感覚が戻ってきた。

なぜ、『ラ・フォル・ジュルネ』でなければならないか。
これまであちこちで散々書いたりしゃべったりしてきて、15年もこのクラシック音楽祭の取材者として(というよりはほとんど当事者のようにして)、それなりにわかっているつもりになっていたが、一番肝心なことをまだ書いていなかった。


東京国際フォーラムのガラス棟から見た『ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2019』会場全体。地上広場の新緑が目に美しい。

それは、この音楽祭に出かけてきた人々の、たくさんの顔、顔、顔を見たこと。

いつもはクラシック音楽のコンサートにはほとんど来ていないであろう、家族連れや友人同士が、素晴らしい生の音楽に出会い、思わぬ幸福感に輝くような表情で、夢中になって聴いている様子――そのたくさんの顔を見たこと。

最初に行ったのは、フェリシアン・ブリュ(アコーディオン)とエドゥアール・マカレス(コントラバス)の二人による「Vagabonds(放浪者たち)」と題されたコンサート(公演番号164)。
もちろん、そんなに有名なアーティストというわけではなく、チケットを買ったお客さんたちは、この音楽祭の出し物の一環として「面白そうだな」と思って来た人たちだろう。

ジャック・ブレルのシャンソンに始まったかと思うと、19世紀イタリアのコントラバスの名人でもあった作曲家ジョヴァンニ・ボッテジーニ(1821-89)をとりあげる。師匠格のアコーディオン奏者のリシャール・ガリアーノの作品や、ロシアの作曲家ドミートリー・ショスタコーヴィチのバレエ音楽「明るい小川」からの美しいアダージョも――クラシック音楽と、シャンソンやタンゴや民族音楽との間に、まったく垣根を作っていない自由なプログラムが、良かった。


1曲ごとに簡単なトークを交え、リラックスした雰囲気で始まった演奏。
153席の小さな会議室「G409」を、サロンのように仕立てた会場だったが、狭いところだっただけに、どのお客さんにも演奏家と楽器の様子はよく見えたことだろう。
無数のボタンを両手の指でめまぐるしくスピーディに押しながら、蛇腹を動かし、呼吸するように演奏するアコーディオン。人間よりも背の高い、大きな木のボディから、腹に響くような低音で朗々と歌い、リズムを刻み、無類の安定感を醸し出すコントラバス。どちらも、生で近くで見て聴くだけで、誰もがとても面白く、興味をそそられるものだ。
演奏の達人のパフォーマンスを目の当たりにすると、楽器と人間とのあいだに、いかに親密で美しい関係が結ばれているかが実感できる。それもまたライヴの醍醐味である。

生の素晴らしい演奏には、必ず呼吸がある。
歌でなくとも、弦楽器でも鍵盤楽器でも、呼吸がある。
ましてや、蛇腹という自ら呼吸する肺をもったアコーディオンは、呼吸の権化のような楽器である。
それを聴きながら、思った。
ああ、音楽というものは、他のジャンルと違って、呼吸する芸術なのだなあと。
呼吸するということは、生きていることと同義でもある。

楽しいトークも交えたリラックスした演奏に次第に熱がこもり、最後は全身全霊の音楽になっていく。それにつれて、聴き手の側もどんどんのめりこんでいき、小さな部屋全体が幸福で静かな熱狂に包まれていった。

すぐ前の席の女性二人連れの横顔が見えた。
リズムに合わせて、ついつい顔が少し上下に動いてしまう。すっかり笑顔になっている。なんとも嬉しそう。音楽に魂を持っていかれているのが、よくわかる。
私はこういう見知らぬ人たちの様子を見るのが大好きである。
人間にとって、音楽が絶対に必要なものだと実感できるから。

最後のアンコール曲の前に、アコーディオンのフェリシアン・ブリュがこんな意味のことを言った。
「私たちは初めて日本に来ました。仲間から噂には聞いていました。日本のお客さんはすごいぞ、と。その意味がいま初めてわかりました」と。

PROFILE

林田 直樹

林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

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