#22 音の中から音楽を掘り起こす奇才シャソール

#25 バーレーン×ジャズ×電子音なUKの才能を観た

フランク・オーシャン『Endless』やソランジュ『When I Get Home』に起用されたマルチニーク出身の音楽家シャソールは音楽と映像を組み合わせて、新たな表現を生み出す奇才だ。彼のライブは毎回特別な体験で、自分の感覚が拡張されたり、更新されるような感覚がある。

シャソールというアーティストがいる。

インドやマルチニーク、ニューオーリンズで録ってきた街の人との対話や、その街の音楽、風景などを編集した映像をスクリーンに流し、そこにシャソールが鍵盤でメロディーやハーモニーを即興でつけ、ドラマーが即興でリズムを加えて、その映像とその場限りのセッションをするようなライブ・パフォーマンスをするのが彼の特徴だ。以下の動画を見るとわかりやすいだろう。

その中で彼のシグニチャーになっているのが人間の話し言葉や動物の鳴き声を聞き取り、それを音階に置き換えて鍵盤で奏でてしまうパフォーマンスだ。例えば、オバマの演説にキーボードで音をつけて、音楽化した以下の動画はシャソールのことを世界的に広めるきっかけになったものだ。

彼はライブでも流れる映像の中にある人間の話し声や動物の鳴き声を鍵盤に置き換えて奏でたり、そこにハーモニーをつける。そうやって、聴き手が音楽だと思っていなかったものを音楽として奏でることで、聴き手の感覚を拡張してくれる。映像とリアルタイムの生演奏の組み合わせという意味では、インスタレーション作品みたいにも捉えられるし、その映像の中での人間の動作や自然現象、カメラワークなどに合わせて絶妙にコードが変わったり、リズムが変わったり、映像と同期したり、離れたりしながら音楽が紡がれるという意味では、映像と音楽が完全に不可分でもあり、実に特殊な表現形態とも言えるだろう。

独創的な音楽を作るシャソールが放って置かれるわけもなく、近年、フランク・オーシャンやソランジュの楽曲に起用されていて、世界的にその注目度が高まっている。

そんな彼のライブをビルボード・ライブ・東京で観てきた。

© Masanori Naruse

上記のように、シャソールの音楽は、音楽ではないものを音楽として聴かせる。人の会話を音楽として聴かせてしまう。もともと音楽として作られていない人の喋りは、リズムは伸び縮みすれば、コード進行もない。そんなただの音だと思っていたものが、音楽として聴こえてしまう体験は彼のライブの最大の楽しみでもある。この日は新作の映像を披露していて、そこにはラッパーのKOHHやクリスタル・ケイが出てきて、日本人にはびっくり且つ楽しいもので、彼らの言葉はシャソールの手により音楽へと昇華されていた。

実は僕は彼のライブを観るのは、たぶん3回目か4回目だったのだが、この日、ふと気づいたのは、シャソールの音楽の特徴でもある「非音楽的な人間の日常的な会話を音楽化する」というのは行為としてはそうなのだが、ここで重要なのは「その会話の中に存在して いる音楽を聴きとる」ことと「その抽出した会話の断片を音楽にするためのデザインの的確さと上手さ」なのかなとも気付いた。彼はすべての「音」を音楽として考えているわけではなく、日常の様々な音の中にある「隠れている音楽」を見つけ、それを取り出して、音楽として仕上げるのではないかと思った。

つまりその会話から抜き出した言葉の断片そのものはただの音に過ぎず、それだけではなんともならないけど、その言葉の断片のリズム感に合わせてドラマーがビートをつけて、そこに潜んでいたリズムパターンみたいなものを浮かび上がらせたり、 その言葉の断片をループさせたりすることで、その断片が持っていたグルーヴを炙り出したりして、そのただの言葉の断片にすぎなかったものの中に潜んでいた音楽としての機能を立ち上がらせるのが彼の音楽制作のプロセスなんじゃないかなと感じた。そして、そこにシャソールがハーモニーを けたり、同じフレーズを鍵盤で添えたりして、更に音楽的な説明や意味を明確にさせていくことで、その切り出した素材の魅力が一気に聴こえてくる。

音楽じゃないものを楽器で置き換えるっていう手法は、彼が自身でも影響を語るブラジルの奇才エルメート・パスコアルなどを含めて、他にも沢山例があるのだが、シャソールの音楽の本質は、その置き換える行為そのものにあるわけではないのかもしれないし、むしろそれとは全く違う考え方だと思って見たほうがいいものなんじゃないかと思うようになった。

岩場の中から埋もれていた原石を掘り起こして、その中から宝石だけを削り出し、磨いて、カッティングして、そこにリングをつけて指輪を完成させる、みたいなデザインの話であって、その原石そのものに美しさを見出すのとは違うというような例えもできるだろうか。音楽は至る所に埋まっている、原石のままで。それをいかに宝石にするか、そして、それを美しく、もしくは多くの人にその美しさがより伝わるような形にデザインすること。

彼はライブでそんなプロセスを見せてくれてるのかもしれないなとも思った。目の前で音楽が掘り起こされて、生成されていく瞬間を味あわせてくれてるのかもしれない。ライブのある瞬間に、人間の言葉の一部が切り出されてループされて、そこにドラマーのビートが足された時に、その言葉の一部が持っているリズムが浮かび上がって、僕の耳に音楽として聴こえ始めた。とても面白い体験だった。そして、それはミニマルミュージックだったり、ヒップホップにおけるサンプリングとループによって作られるビートだったり、そういったあるフレーズをひたすら反復する音楽の意味を教えてくれたりもする。反復されることで、その音列やリズムの魅力のポイントに耳がフォーカスできるようになる感覚の面白さをシャソールは知っているのだろう。

そして、この日の僕はシャソールによって「自分が何をもってその音を音楽だと認知してしまうのか」「自分はどんな状態だったらその音を音楽だと認知しないのか」みたいな感覚をコントロールされていたとも言えるし、そんな自分の中の「音と音楽の間」みたいな線引きみたいなものを自覚させられる時間だったとも言える。そして、曖昧なものが急に具体化されたと感じる瞬間の、目の前が一瞬でクリアにある瞬間みたいな快感もシャソールによって与えられていたのかもしれない。

こういう体験は日々ライブを山のように見ていてもなかなか出会えないものだったりするのだ。

PROFILE

柳樂 光隆

1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。

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