ジャズ作曲家の挾間美帆がプロデュースによるシンフォニック・ジャズのコンサートに行ってきた。シンフォニック・ジャズの名曲と挾間美帆の書下ろしのピアノ協奏曲を東京フィルハーモニー交響楽団が奏でる贅沢なコンサートだ。
『NEO-SYMPHONIC JAZZ at 芸劇』を観てきた。
シンフォニック・ジャズとは何かというと「オーケストラが演奏するジャズとクラシックが融合した音楽」といったところだろうか。
そういった「ジャズでもクラシックでもどちらでもない音楽」をジャズ作曲家の挾間美帆がプロデュースし、東京フィルハーモニー交響楽団が演奏を、原田慶太楼が指揮を担当。そこに、NYを拠点に活動する現代ジャズ・シーン屈指のピアニストのシャイ・マエストロがゲストに加わる、というのがこのコンサートだ。
昔からシンフォニック・ジャズの代名詞として知られるジョージ・ガーシュウィンやレナード・バーンスタインといったどちらかと言うとクラシック側での定番の大作曲家に加え、60-80年代にジャズシーンで数多くの管弦楽曲の編曲を手掛けた偉大なアレンジャーでもあるクラウス・オガーマン、そして、現在でも第一線で活躍し、現代ジャズにおけるラージ・アンサンブルを代表する作編曲でもあるヴィンス・メンドーサといった20世紀初頭から現代までのシンフォニック・ジャズを代表する4人の曲を取り上げ、更にシャイ・マエストロの楽曲をシンフォニック・ジャズ化した2曲、最後に挾間美帆がこのコンサートのために書き下ろしたピアノ・コンチェルトを演奏するというプログラムを東京フィルハーモニー交響楽団の演奏で、東京芸術劇場で行うのはかなり野心的なコンサートだったと思う。
今やジャズとヒップホップが、ジャズとインディーロックが融合することも珍しくはないが、ジャズとクラシックの関係性も更新されていることを教えてくれるのが、このコンサートだった、と言えるかもしれない。
前半で過去の4人の楽曲を取り上げたが、ここの構成が素晴らしかった。最初にジョージ・ガーシュウィン:『ガール・クレージー』序曲を、最後にレナード・バーンスタイン:『オン・ザ・タウン』から「3つのダンス・エピソード」を演奏し、その間にクラウス・オガーマン:『シンフォニック・ダンス』から第1楽章、第3楽章、そしてヴィンス・メンドーサ:インプロンプチュが挟まれる。
まず1930年のミュージカルのために書かれたガーシュウィンの超オールドスクールな曲で「ジャズとオーケストラの足し算」のようなサウンドを頭に入れてから、1971年のクラウス・オガーマンの曲を聴くとそのあまりの違いに驚く。クラウス・オガーマンになるとほぼクラシックそのものと言ってもいいが、その中にはジャズならではの響きやリズムやフレーズが溶け込んでいる。クラウス・オガーマンはジャズミュージシャンたちの即興演奏にふさわしい管弦楽アレンジをつけてきた名編曲家。そんな彼だからこそ書くことができる「ジャズを熟知した作曲家によるオーケストラ曲」であるのがよくわかる。ジャズの要素をくっつけたり、コラージュしたようなものとは別物で、その境界は無くなっている。それは1997年にリリースされたヴィンス・メンドーサの曲も同様だが、オーケストラの音楽のままでジャズ的な響きやフレーズを織り込む手法はより巧みになっている気がした。また、どこかダークで曇っているような響きにも感じたクラウス・オガーマンに比べると、ヴィンス・メンドーサの楽曲は鮮やかでカラフルだった。同じように現代的でジャズとクラシックをシームレスに繋ぐオーケストラ音楽でも、その中にはバリエーションがあることを教えてくれる2曲だった。そこからもう一度、オールドスクール枠な1944年のオペラのために作曲されたレナード・バーンスタインの曲を聴くと、この曲の中にあるジャズ要素のわかりやすさと、その前の2曲におけるジャズ要素の見えにくさがよくわかる。そして、それはおそらく1970年代以降、オーケストラのための音楽に関しても様々なチャレンジがジャズの側で行われてきていて、その中で「ジャズ」という音楽の形や要素、もしくは「在り方」みたいなものがいかに変化してきたか、ということをも示していたと思う。そういったそれぞれの曲の差異をここまで感じられるのはすべての曲が同じオーケストラにより演奏されているからだろう。同じオーケストラだからこそ、その曲の特徴や音色や響きの違いだけがはっきりと浮かび上がる。つまり、このコンサートはそれぞれの曲の録音物を聴くよりも、はるかにわかりやすくそれぞれの差異を感じさせてくれるプログラムだったわけだ。
そこからシャイ・マエストロの2曲を挟んで演奏された挾間美帆の作曲による「ピアノ協奏曲第1番(東京芸術劇場委嘱作品・世界初演)」はこの日、聴いてきた20世紀に行われてきたオーケストラのためのジャズの歴史を踏まえながら、その上で現代のジャズとしてアップデートされた21世紀のシンフォニック・ジャズそのものだった。ジョージ・ガーシュウィンやレナード・バーンスタインのようにジャズっぽさが挿入されるキャッチーさがありながらも、そのフレーズやリズムはすべて現代的でブラッド・メルドーやブライアン・ブレイドを前提に聴いてきた僕らにとっては至極自然に「21世紀のジャズ」と思えるものだ。またクラウス・オガーマンやヴィンス・メンドーサのようにオーケストラの中にふっとジャズっぽい響きが聴こえてきたりする瞬間もある。それは挾間美帆が自身のバンドのm-unitで聴かせているものだったり、ギル・エヴァンスからマリア・シュナイダーに連なるジャズ・ラージ・アンサンブルの系譜にあるものだったりとは同じ感覚で聴くことができるが、少し異なる。「ジャズ・アンサンブル」のために書かれた音楽ではなく、「クラシックのオーケストラ」が演奏するための音楽は、その響きがより繊細で、より整然としている。全員が寸分のたがいもなく一体化したような演奏が生む響きの美しさはオーケストラならではのもの。挾間美帆も彼女らしいフレンドリーなメロディーを聴かせつつも、ジャズ・アンサンブルのための曲よりも、ダークさもカラフルさも奏でる大胆なストーリーによる壮大な世界観を描き、原田慶太楼の指揮による東京フィルハーモニーはそれを完璧に具現化しつつ、ダイナミックに演奏しきった。これほどまでに鮮やかな「現代ジャズ・リスナーのためのオーケストラ入門」的な音楽だとは思わなかった。
ちなみに挾間美帆はこの「ピアノ協奏曲第1番」を「これからも様々なオーケストラに演奏される曲にしたい」とか語っていたが、それを僕が最も感じたのはシャイ・マエストロが奏でたピアノ部分だった。今回はゲストとしてシャイ・マエストロが選ばれていたが、これが別のジャズ・ピアニストだったら、全く異なるものになりそうな「余白」が用意されているように思えたし、一方でこの部分をクラシックのピアニストが弾いたとしてもそれはそれでその個性が出るようにも感じた。そのピアニストの演奏スタイルだけでなく、そのピアニストが持っているタッチ=音色の違いだけでも全く異なる雰囲気を纏ってしまうような曲になっているように思えた僕はこれがもしジェイソン・モランだったら、サリヴァン・フォートナーだったら、ポール・ブレイだったら、ティグラン・ハマシアンだったら、などと想像を膨らませていた。そういう意味でも、この曲には可能性が埋め込まれているのがよくわかったし、その「個」の演奏が、そして、その時の演奏者のインスピレーションが生むその時、その瞬間だけの演奏が音楽を変えていくジャズの魅力がこの曲にはインプットされているではないか、とも思った。「ジャズ作曲家」としての矜持と、「ジャズ」の枠には収まりきらない「作曲家」としての野心がせめぎ合っているのも、実に挾間美帆らしいとも思った。
最後に、個人的な感想を述べると、コンサートホールでオーケストラを聴くというのは、やはり刺激的な体験だと改めて思った。増幅されていない生の音が重なり合って溶け合って響き合っていく様子をずっと追っているとだんだん耳が慣れてきて、どんどん感度が高くなっていくのもわかる。集中力が高まって感度が上がるってくるとオーケストラのハーモニーはサイケデリックにさえ感じたりするし、その中で音量や音色、残響の質感や長さまでをコントロールしながらピアノを弾くシャイ・マエストロのピアノの音がひとつひとつ飛んできて、ホールの中に消えていく感覚はジャズクラブでは味わえない全く別の体験だなと思った。東京芸術劇場みたいな場所でコンサートを、しかも、自分がこれまで散々聴いてきた挾間美帆やシャイ・マエストロのような音楽家の音楽を聴くと、生の音とその響きを味わうという贅沢の意味がより深くわかる気がした。
柳樂 光隆
1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。
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