#29
「ベートーヴェンはアルファでありオメガであるような存在」~ピアニスト、フランソワ・フレデリク・ギイに聞く~

#29 「ベートーヴェンはアルファでありオメガであるような存在」~ピアニスト、フランソワ・フレデリク・ギイに聞く~

2020年はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の生誕250周年である。すでに世界的規模で、多くのイヴェントが行われることが発表されており、日本でも各オーケストラや劇場、そして東京・春音楽祭とラ・フォル・ジュルネという東京の2大音楽祭でも、ベートーヴェンを大きくクローズアップすることが、すでに発表されている。そこで今回は、この11月下旬から12月上旬にかけて来日し、武蔵野市民文化会館でピアノ・ソナタ全曲演奏会を短期集中的におこなう、世界屈指のベートーヴェン弾きであるフランスのピアニスト、フランソワ・フレデリク・ギイ(1969年生まれ)へのインタヴューをご紹介する。

――ギイさんのリサイタルはフランスでも日本でも何度も聞かせていただいて、見えない音を、聴こえない空気中の音をつかむような、神秘的で、集中力ある演奏にすっかり魅せられています。
ベートーヴェンがピアノのために書いた音楽は、ピアノ・ソナタもあれば、室内楽もあれば、協奏曲もあるわけですが、あなたはそれをトータルに把握しようとされていますね?

ギイ:私にとってベートーヴェンはアルファでありオメガであり神のような存在です。ベートーヴェンのすべての作品にアプローチしていくことによって、より深い発見、つながりのようなものが見えてくる。たとえば室内楽を手掛けると、ピアノ・ソナタがどういう風に書かれているかということがわかってくるし、ソナタを弾くと協奏曲がわかるというふうに。だから、ベートーヴェンのどの曲ということでジャンル分けをすることなく、深く踏み込んでみると、いろいろな秘密のつながりが見えてくる。そういう意味では、巨大なパズルのような世界としてベートーヴェンのことを見ています。
ベートーヴェンを手掛けるために、ひとつのピースをそこに足していく。最後には、巨大なものが自分の前に新しく姿を現わすのではないか、と思っています。

写真:油谷岩夫
写真:油谷岩夫

――他の作曲家にも素晴らしい人はたくさんいるのに、ベートーヴェンが特別なのは、なぜなんでしょうね?

ギイ:ほかに素晴らしい作曲家というとすぐに二人の名前が浮かびます。バッハとモーツァルト。この二人は、神の領域にある人たちだったと見ていいと思います。ある意味彼らは完璧すぎる。私たちは人間であって神ではないという意味で、バッハとモーツァルトは完璧すぎるのです。

それに比べるとベートーヴェンは、「恐ろしいほどに人間的である」と言える。作曲方法を見ても、モーツァルトで有名なのは、紙の上にペンで一筆書きのように間違いなく、最初から完璧なものを作り上げることができた。ベートーヴェンの場合は、たとえば第5のテーマや歓喜の歌のテーマを見つけるために、何度も何度も書き直し、1か月2か月も熟考し、書いては直し、ということを続ける。そういうことによって、自分にとっての真実を見つけていった。
つまり、私たちと同じように問題を抱えた、一人の人間であったということが、彼の凄さでもあった。だからこそ、心の言葉を深く語ることができて、日本であれアメリカであれヨーロッパであれ、世界中の人々の心を普遍的に揺り動かす表現ができたのだと思います。
付け加えるならば、ベートーヴェンは、人間の持つセンチメント、深いところを、思い切って表現した最初の音楽家だと言っていいと思います。仰々しい真実だけではありません。ユーモアや怒り、考えを深めて行く過程、哲学…そういったものを、臆することなく音楽で語った。そういう意味で、晩年のソナタやミサ・ソレムニスのような深みのあるものも表現しただけでなく、それ以外の人間的なところを、それまで音楽が語ることを許されていなかったようなことまで、踏み込んで表現するようになったのです。

――ベートーヴェンが最後に暮らしていた部屋の絵を見たことがありますが、そこには二弾鍵盤の最新型の未来的なピアノが置かれていました。でもベートーヴェンは晩年は自分の耳でその音を聴くことはできなかっただろうと思うんです。なのに最新型のピアノを置いていたということにとても興味を惹かれたのですが、ベートーヴェンはおそらく、聴こえないものを、誰も聴いたことのないものを、聴こうとしていたのではないでしょうか?

ギイ:おっしゃることはとてもよくわかります。最後まで彼に力を貸していた楽器製作者がいましたが、常に新しいものを必要とし、自分の仕事をリニューアルし続ける、壊しては新しくすることを必要とする創造者だとベートーヴェンのことを評した人も多かったわけです。自分の耳で聴くことができなかったのは、悲しいことだったわけですが、ある意味、世界から孤立したところに身を置くことができた。外のノイズや生活音、同時代の音楽の潮流が自分の外でなされているのを、聴かずに済んだということも、革命的なことを成し遂げ続けられたというベートーヴェンにとっての鍵だったのかもしれません。
そこで気になってくるのが、果たしてベートーヴェンが普通に耳が聞こえる人だったとして、あれだけすごいものが書けたのか、誰も聴いたことがなかったものを作って、常に人の心に触れることができたのかどうか。率直に思うのですが…たぶんありえなかったでしょう。

――耳がちゃんと聞こえる人にとっても、物理現象としては聞こえていないような音を、空気の中から聞くとでもいうのでしょうか。そういう姿勢をベートーヴェンから教わるようなところがあるのかもしれませんね。

ギイ:誰も耳を通して聴いたことのないものを聴く。そういう、これまで誰も知らなかったものを聴き続けること。それはおそらくベートーヴェンの音楽に接する人なら、それぞれ自分なりに必ず感知することができるものではないでしょうか。演奏する側はそれを意識せざるを得ないし、聴く方もみなさんそれぞれの側で感じることだと思います。
ベートーヴェンは翻訳者なのです。人間の内側のセンチメントを感じて、翻訳してくる人。ベートーヴェンを弾けば弾くほど、そういう多彩さを翻訳する力をもらえているような気がします。

――いま世界の潮流となっているのは、ピリオド楽器、つまり作曲家が活躍していた当時の楽器や演奏法を意識して、今に問うというやり方があるわけですけれども、フォルテピアノに関しては、どういう意見をお持ちでいらっしゃいますか。

ギイ:非常に興味深いことだと思いますし、そういう資料にあたることは必要です。どういう楽器をベートーヴェンは使っていたかということは知っておきたい。
ただ、ピアニストにとって問題は何かというと、当時のピアノはベートーヴェンの好みではなかったということです。常にもっと新しい表情をのせられるように、もっと弦の長さを足してほしいとか、もっと低音を豊かに、倍音を生かせるようにしてほしいとか、常に不満を訴えて新しいものを作らせていた。いわゆるオーセンティックなものを追い求めて行くと、ベートーヴェン自身が好まなかった楽器にたどり着くのです。
逆に一つの考え方として、いまのモダンピアノをもしベートーヴェンが見たら、間違いなくこれを愛したのではないかと私は信じます。今の楽器の持つパワー、美しさ、豊かさ、音色の変化、表情の見せ方。そういう意味では、モダン楽器を私は尊重してやまないですから。

――確かに、ベートーヴェンが作曲をはじめた初期と晩年とでは、ピアノのほうもどんどん変わって発展を続けたわけですから、今後ピアノはこう発展すると思いながら作曲した可能性もありますよね。

ギイ:ベートーヴェンの特殊性は、音楽に革命を起こしたということですが、比較してわかりやすいのは、19世紀の産業革命や、1990年代の情報化社会ということではないでしょうか。それらのものがどういうタイミングで起きたかというと、ベートーヴェン以降に音楽は変わった。シューベルトやシューマンやブラームス、リストらが美しい音楽を作ったけれども、実は根本のところで、一番変わったものはベートーヴェンが起こして、それ以降は革命的に新しいものを出した人はいない。
現代音楽の作曲家でもそうです。たとえばピエール・ブーレーズも、自身の音楽の参照としてベートーヴェンを意識していた。「ハンマークラヴィーア」や作品78を参考に書いたということが言われています。あれだけラジカルな作曲家と言われた人でさえ、そうなのです。
他にもたとえば、バルトーク、リゲティ、ブーレーズ、ショスタコーヴィチ、彼らはベートーヴェンに直結しています。そういうところに名前が出てくるのが、シューベルトやモーツァルトではないというのは、興味深いことです。
おそらく現代に活躍する作曲家たちにとっても、ベートーヴェンはそこに楔を打ち込んだ、そこがターニング・ポイントになっていた人ということで、楽器やオーケストラの進化であれ、ベートーヴェンが何かをしたということが大きいのだと思います。コントラファゴットやトロンボーンやピッコロをオーケストラに初めて追加したのもベートーヴェンなわけですから。第9で初めて交響曲に合唱やソリストを入れたのもベートーヴェンでした。ベートーヴェンは常に最先端であり続けたし、いまでも最先端にい続ける人なのです。だからこそ私はベートーヴェンを弾くのです。

――なるほど。前衛と言ってもいいですよね。

ギイ:21世紀のいまになっても最先端であり続けるとは信じがたいです。

公演情報
フランソワ・フレデリク・ギイ ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲演奏会

場所: 武蔵野市民文化会館
第1回 11月23日(土・祝)14時~ (第1、2、3番)
http://www.musashino-culture.or.jp/eventinfo/2019/05/912.html
第2回 11月23日(土・祝)19時~ (第5、6、7番)
http://www.musashino-culture.or.jp/eventinfo/2019/05/92.html
第5回 11月30日(土)19時~ (第16、17、18番)
http://www.musashino-culture.or.jp/eventinfo/2019/05/95.html

上記の公演は若干残席あり。
ピアノ音楽の新約聖書とも言われるベートーヴェンのピアノ・ソナタは、初期の作品も含めてすべてが傑作である。

PROFILE

林田 直樹

林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

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