#06 平成の幕開けとジャズのメインストリーム

#06 平成の幕開けとジャズのメインストリーム

前回は「平成の幕開けとクラブジャズ」について書いたが、一方でその時期のメインストリームのジャズについても書いておきたい。1991年(平成3年)にマイルス・デイヴィスが亡くなったことが象徴するように、転換期が訪れようとしていた時期だったからだ。

平成が始まったころ、アメリカのジャズの世界ではどういうことが起きていたかを見てみるとなかなかに興味深い。

改元前年の1988年(昭和63年)にスティーブ・コールマンが自身のグループのファイブ・エレメンツを率いて『Sine Die』を、1990年(平成2年)に『Rhythm People (The Resurrection Of Creative Black Civilization)』をリリースしている。ヒップホップがどんどん勢力を増していく中で、アフロアメリカンのジャズミュージシャン達もUSのブラックミュージックのトレンドとして、ヒップホップに強く関心を持つようになっていた時期だった。そんな中でスティーブ・コールマンはジャズやファンク、当時のトレンドだったゴーゴー・ミュージックに加え、ヒップホップの要素を取り入れていた。コールマンが提示したMベースと呼ばれる音楽は90年代に一気に広まり、現在ジャズシーンでも彼の弟子筋が数多く活躍していて、大きな影響を与えている。


またトランぺッターのロイ・ハーグローヴが『Diamond In The Rough』でデビューしたのは1991年(平成3年)。ロイは後にディアンジェロやエリカ・バドゥの作品に貢献したり、RHファクターを結成してジャズミュージシャンがヒップホップやネオソウルを取り込む流れの起点を作っている。ちなみに同年にリリースされているのがマイルス・デイヴィスの遺作で、マイルスがヒップホップにチャレンジした『Doo-Bop』。

ジャズサックス奏者のブランフォード・マルサリスがスパイク・リー作品に関与し、1989年(平成元年)の『Do The Right Thing』ではパブリック・エネミーとの「Fight The Power」を、1990年(平成2年)の『Mo’Better Blues』ではDJプレミアとの「Jazz Thing」をリリースしている。

前回、平成の始まりはDJがジャズに接近し、クラブジャズやジャジーヒップホップが人気になったことを書いたが、ジャズミュージシャンもまたヒップホップを介してDJカルチャーに接近しはじめた時代でもあった。

一方で、先ほど、ブランフォード・マルサリスの名前を出したように、メインストリームのジャズのシーンでは80年代の前半から君臨していたウィントン・マルサリスの勢いがそのまま強かった。ウィントン・マルサリスの名盤『The Majesty Of The Blues』がリリースされたのが1989年(平成元年)で、ウィントン・マルサリスの右腕ケニー・カークランドがデビューアルバム『Kenny Kirkland』をリリースしたのが1991年(平成2年)なのは象徴的だろう。

ただ、90年代以降、少しずつ様子が変わってくる。1993年(平成5年)にジョシュア・レッドマンが『Joshua Redman』で、1994年(平成6年)にブラッド・メルドーが『When I Fall In Love』でデビューする。同時期に、カート・ローゼンウィンケル、マーク・ターナー、ブライアン・ブレイドが頭角を現し始めていて、ジャズシーンの雰囲気が明らかに変わり始めていく予感を感じるのが90年代=平成初頭だ。彼らは現在もジャズシーンをリードし続けているトップランナーであり、同時に21世紀のジャズのひな型を作ったといってもいいゲームチェンジャー的なミュージシャンたちだ。

ロバート・グラスパーらの世代や更にそれ以降の世代のサウンドの特徴の中には、ヒップホップなど他ジャンルと融合されている音楽性や、ジョシュア・レッドマンやブラッド・メルドーらの世代が作ってきた新しいジャズの要素などがある。現在も刺激的な作品が次々に生み出されているジャズシーンのそのルーツを辿っていくとこの時期に大きな変化があったことがわかる。

平成の始まりというのは、ちょうどジャズが大きく動き出すタイミングだったのだろう。

PROFILE

柳樂 光隆

柳樂 光隆

1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。

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