#11 なぜサロメはヨカナーンの首を欲しがったのか~二期会のヴィリー・デッカー演出による舞台を観て

この4月から6月にかけて、東京二期会が二つの”サロメ”を題材としたオペラ――フランスの作曲家マスネの『エロディアード』、ドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』――を上演しました。折よく、パナソニック汐留美術館では『ギュスターヴ・モロー展 ~サロメと宿命の女たち』が展示中(~6月23日)で、芸術史におけるサロメ像が大きくクローズアップされることとなりました。今回は、そのクライマックスとなったシュトラウスの『サロメ』のレビューです。

オペラ入門にもっともふさわしい演目のひとつが、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』である。古代エルサレムを舞台にした、聖書に基づくエピソードによる物語だが、原作となっているオスカー・ワイルドの戯曲は、1905年に作曲された当時からセンセーショナルな存在であった。
ビアズレーやモローの絵に象徴されるように、世紀末のデカダンス的芸術に関心ある人にとって、最も入りやすいテーマだし、劇中に出てくる「7つのヴェールの踊り」は1枚1枚サロメが服を脱いでいき、ヘロデ王の歓心を買うための、一種の煽情的ダンスとして知られる。その褒美としてサロメはどんな宝物よりも預言者ヨカナーン(イエス・キリストに洗礼をした聖者)の首を所望し、ついにはその生首にキスをする。最後は恐怖したヘロデ王の命令で殺されて幕となる。つまり、倒錯的でエロティックな要素に満ちた作品なのだ。
私もクラシックを聴き始めた思春期の頃に、最初に好奇心を抱いたオペラのひとつが、この『サロメ』であった。ヌードを描いた名画にくぎ付けになるのと、そう大差ない。大衆的な好奇心をそそるのも、オペラにとっては大事なことである。

しかし、何度も『サロメ』に接しているうちに、わかってくる。
このオペラは官能的な音楽に満ちてはいるけれど、実はサロメは猟奇的な妖婦でも、異常性欲の持ち主でもなんでもなく、むしろ純真な少女だったのではないか、ということが。

今回、東京二期会の『サロメ』(ヴィリー・デッカー演出、セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団)に接して、さらにその思いを強めた。

ひとつのシーンが瞼によみがえってくる。
不安定な、平衡感覚の失われるような階段だけで作られた舞台。月の夜。地下牢から響いてくる預言者ヨカナーン(大沼徹)の声。為政者の不正を糾弾し、権力にひるまず、希望と未来を語るその若い男の声は、あまりにも凛々しく美しい。
堕落した王で義父のヘロデ(今尾滋)のいやらしい好色な視線にさらされ、退屈な宴から逃れ出てきた王女サロメ(森谷真理)にとって、ヨカナーンのその声は、あまりにも魅力的なものだった。

平衡感覚を失わせるような階段の続く、不安定な印象を与える舞台。写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:三枝近志

彼の名前を知りたい。彼に触れたい。もっと彼の声を聴いていたい。そう思うのは少女にとっては当然のことだったろう。
すべての登場人物は、スキンヘッド、つまり剃髪であった。この演出が意味することは、ある因襲にとらわれた人々、ということだろう。しかし、ヨカナーンだけは、黒くふさふさとした葡萄の房のような髪を持っている。彼だけは、自由で特別なのだ。サロメはそれに気が付いている。

ところがヨカナーンはサロメを拒絶する。決して一人の女として、対等な人間として、ありのままの彼女を見つめることをしない。不道徳な王妃ヘロディアス(池田香織)から生まれた呪われた娘だと言って、サロメを全否定するのだ。

ヨカナーン(大沼徹)に惹かれ、触れようとするサロメ(森谷真理)。写真提供:公益財団法人東京二期会 撮影:三枝近志

ああ、その瞬間の音楽の恐ろしさ! そして顔面蒼白となって頭をかかえてうずくまったサロメの可哀そうなこと!

思えば、宮殿で生まれ過ごしてきたサロメにとって、命令し命令されることはあっても、好色な視線にさらされることはあっても、誰かと一対一の人間どうしとして、関係を結ぶことが、これまでは全くなかったのではないだろうか。

生まれが何だと言うのだ。母がどんなに罪にまみれていようが関係ない。サロメも人間である。
ヨカナーンがどんなに立派な男であろうとも、サロメに対してそう決めつけた段階で、彼は考えうる限り最大の侮辱を、頭ごなしの全否定を、一人の人間に対して与えたのではなかったか。

サロメにとって、口づけをするということは、ただの「…される」存在としてではなく、一人の人間として主体的な行為をおこなうということであり、愛し合う行為に向けての一歩である。この舞台を観ながら、そう思えてならなかった。

サロメが7つのヴェールの踊りを踊るシーンは、ストリップでもなんでもなく、ヘロデ王との心理劇のようなマイムが展開された。それは、まともに一人の人間として扱ってくれない権力者の男に対する復讐であり、露骨なまでの性的な挑発を武器に、決して卑屈ではなく、男をあざ笑うかのように手玉にとり、屈服させる行為のように見えた。

地下牢でヨカナーンが首を切られるのをサロメが待ち受けているときの音楽は、いつ聴いても鳥肌が立つほどに不気味である。オーケストラピットの中から、コントラバスのソロでキッ、キッ、という喘ぐように高い音が、断続的に響くのを、息を殺しながら聴き入る。あの音は、サロメの喉の奥の、ときめきとも期待とも嗚咽ともつかぬ、意識下の欲動のような音である。あれを生み出したシュトラウスの凄さを思わずにはいられない。

ラストシーンでは、今回はヴィリー・デッカーの演出の意外性ある結末なのだが、サロメはヘロデ王の命令で衛兵たちに殺される前に、自らの手でナイフをわが身に突き刺し、ヨカナーンの首の傍らに、あたかもヨカナーンがまだ生きているかのようにマントを広げた横に、倒れ込む。
サロメは一対一の対等な女と男として、ヨカナーンと触れ合い、一緒に横になり、肌を重ね、コミュニケーションを取りたかっただけなのではないだろうか。その夢想は、あまりにも美しく、また気の毒でさえあった。

セバスティアン・ヴァイグレ指揮読売日本交響楽団の演奏は、このオペラ全体を覆っている不吉な予感を体現しつつ、声とのバランスのとれた、サロメの内面のドラマに沿った演奏であった。
歌手たちは、踊り場も手すりもない不安定な長い階段を駆けまわり、激しい演技をしながら見事に歌っていた。転んだりしないかどうか、ハラハラしながら見守る気分だったが、そのあやうさもまた舞台の効果だったのだろう。

エロに関心があって『サロメ』に引き寄せられた大衆は、サロメが実はひとりの純真な女性として、愛する男性とごく当たり前にふれあい、夢を見たかっただけなのだということを思い知る――。それが今回の舞台の核ではなかったかと思う。

(6月8日、東京文化会館 所見)

サロメを知るためのガイド

●『三つの物語』(フローベール著、谷口亜沙子訳 光文社古典新訳文庫)
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サロメの伝説を下敷きに、ユダヤの王宮で繰り広げられる騒動を描く「ヘロディアス」は、ヨカナーンがどれほど力強い言葉、歌のような言葉をもつ人であり、その声こそが彼の魅力の根源であったかを雄弁に物語る。

●『サロメ』(ワイルド著、福田恒存訳、岩波文庫)
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オペラの原作となった戯曲の格調高い翻訳。オペラに触れる前に読むと理解に役立つ。

●『R.シュトラウス:楽劇《サロメ》からフィナーレのモノローグ、7つのヴェールの踊り、5つの歌曲 レナード・バーンスタイン指揮 フランス国立管弦楽団、モンセラート・カバリエ(ソプラノ)』
https://www.universal-music.co.jp/leonard-bernstein/products/uccg-90592/
自宅でサロメの聴きどころだけを楽しむのに好適。美しい歌曲も収められており、シュトラウス入門にも良い。

PROFILE

林田 直樹

林田 直樹

音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。

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