10月9日サントリーホールで、読売日本交響楽団の第592回定期演奏会で、ユーリ・テミルカーノフ指揮によるハイドン「交響曲第94番《驚愕》」と、ショスタコーヴィチ「交響曲第13番《バビ・ヤール》」を組み合わせたプログラムを聴いた。
ハイドンとショスタコーヴィチを組み合わせたプログラムは、たまに見かけることがあるが、両者は相性がとても良い。
交響曲という形式の確立者であるオーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)と、20世紀にあってなおも交響曲を自らの活動の中心軸においていたロシアの作曲家ドミートリー・ショスタコーヴィチ(1906-75)。
この二人を並べることで、交響曲の歴史を、最初のピークと最後のピークから、大きく包括するような視点が与えられるし、ハイドンとショスタコーヴィチは、案外、少し似たところがある。曲線的というよりは直線的。ユーモアと皮肉。建前と本音が紙一重になっているところもそうだ。
テミルカーノフは、1938年生まれで、この12月に81歳となる。ロシア音楽界の大御所である。マエストロは、今回の組み合わせで、《バビ・ヤール》の深刻さだけでなく、笑いの要素にも光を当ててくれたように思う。ハイドンのいわゆる「びっくり」交響曲との対照のおかげである。
ハイドンでは、比較的大編成でも求心力を失わない、一糸乱れぬ読響の高精度なアンサンブルを満喫することができた。テミルカーノフは読響の力量を信頼しきっているのだろう。骨太の筆遣いで、一気呵成にハイドンの音楽の愉悦を、おおらかに、しかし緩みなく描いていった。
ハイドンが嫌いだと言う人は多い。ロマン派以降の味付けの濃厚な音楽に慣れている人は、ハイドンの日常性と中庸、折り目正しさを退屈に思うこともあるかもしれない。だが、その指揮者が本物であるかどうかを知るには、ハイドンを聴くのが一番いい。一流の料理人ならだし汁だけですごいものが作れるのと、同じ道理である。
今回のテミルカーノフ、前半の《驚愕》だけで、さすが本物は違う、と思わせた。
後半のショスタコーヴィチ《バビ・ヤール》は、エフゲニー・エフトシェンコ(1933-2017)の詩集から選ばれた5編からを歌詞とした、男声合唱(新国立劇場合唱団)とバス歌手(ピョートル・ミグノフ)が付いた、5楽章の大作である。1962年の作曲・初演で、ちょうどソ連では独裁者スターリンの死後、フルシチョフによる雪解けとなっていたころの作品だ。
オーケストラの響き全体は重々しく、男たちだけの低い声が集合して、時おり弔鐘が鳴り響き、音楽はどす黒く陰惨にさえ感じられる。ハイドンの明るい愉悦とは、一見正反対の世界である。
第1楽章「バビ・ヤール」は、エジプトの時代から帝政ロシアやナチス・ドイツによるユダヤ人差別や虐殺、第2次大戦中のアンネ・フランクのエピソードまでが語られる。そこでテーマとされているのは、単に反ユダヤ主義への告発と、犠牲者を弔うだけではない。エフトシェンコの詩とショスタコーヴィチの音楽によって、怒りをこめて糾弾されているのは、ことさら愛国者を名乗る者たちこそが、ときに最も恥ずべき差別主義・排外主義に陥るのだという、世界共通の事実である。それは、過去ばかりではなく、未来にも向けられている。
エフトシェンコの詩ではこう語られる。
「わたしはユダヤ人ではないが、わたしは銃殺されたユダヤの老人や子供のひとりひとりと同じだ。そして、すべての反ユダヤ主義者どもに憎まれる。だからこそ私はまことの善良なるロシア人なのだ」と。
何と素晴らしい、弱者や他者への共感に満ちた、善良で人間的な言葉なのだろう。
第3楽章「商店で」では、この世のどんな辛い仕事にも耐えながら、家族や愛する人や子供のために、寒さの中レジに並ぶロシアの女たちは、誇らしいのだ、と歌われる。「それなのに、釣銭でごまかし、秤でごまかすとは、何たる恥ずべきことだ!」という部分で、ショスタコーヴィチの音楽は怒りで大爆発する。
失礼ながら、私はこの部分に来ると、つい笑いをこらえきれなくなってしまう。だって、「釣銭をごまかすんじゃねええ!」とショスタコーヴィチがブチ切れているのだ。
この交響曲には、大真面目ゆえの妙な“おかしみ”がそこかしこに張り巡らされているように思えてならない。
だが、この怒りは本物でもある。
なぜなら、ショスタコーヴィチは、ロシアの誇らしい女たちが耐えに耐えている姿に愛情を寄せているのだから。彼女たちのために本気で怒っている。
生活に苦しみながらも、なおも正直に働き、懸命に生き抜こうとしている庶民の暮らしから、少しずつピンハネして、私腹を肥やしている者たちに向けられた怒り。
それは現代の日本にも通じる状況があるのではないだろうか。
第4楽章「恐怖」も含蓄に富んでいる。人間どもを飼い慣らし、堕落させるあらゆる恐怖について、ここでは語られる。
「黙るべきところで叫ぶようにしつけられ」
「叫ぶべきところで黙るようにしつけられ」
というのは、自由のないあらゆる国家において、ありうることではないだろうか。
「真実そのものである理想を、虚偽でおとしめる恐怖」
「他人の言葉を繰り返す恐怖」
「他人を不信でおとしめ、おのれを過信する恐怖」
かつてのナチス・ドイツやソ連ばかりでなく、間違った方向に走り出している国すべてに対する、警告として受け止められる言葉ばかりである。
こうした言葉と音楽に、誇張はいらない。
テミルカーノフは、ただただ作品そのものに語らしめる、という態度で指揮していた。だからこそ、《バビ・ヤール》は全人類に向けられた真実の言葉として、客観的な説得力を増していた。
テミルカーノフは潔癖なくらいに誠実な、芸術至上主義者である。
その手足となった読響と新国立劇場合唱団のおかげで、エフトシェンコの言葉(字幕:一柳富美子)と、ショスタコーヴィチの音楽が、2019年の東京に雄弁によみがえって響きわたり、聴衆は静けさと集中をもって、その警告を受け止めていた。いいコンサートだった。
※「ユーリー・テミルカーノフ モノローグ」(ジャミーリャ・ハガロワ著、小川勝也訳 アルファベータブックス)
https://ab-books.hondana.jp/book/b345749.html
テミルカーノフの人となりや生い立ち、妥協のない音楽作り、幅広い教養、社会全般についての考え方が伝わってくる自叙伝。ショスタコーヴィチやストラヴィンスキーをはじめ、幅広いジャンルの人々との交流についての記述も興味深い。ユーモアと厳しさの一体となった独特の魅力的な人柄も感じられ、音楽への理解の一助となることだろう。
※2020年4月にユーリー・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団の来日公演が決定している。
https://www.japanarts.co.jp/news/news.php?id=4336
林田 直樹
林田 直樹
音楽ジャーナリスト・評論家。1963年埼玉県生まれ。オペラ、バレエ、古楽、現代音楽など、クラシックを軸に幅広い分野で著述。著書「ルネ・マルタン プロデュースの極意」(アルテスパブリッシング)他。インターネットラジオ「OTTAVA」「カフェフィガロ」に出演。月刊「サライ」(小学館)他に連載。「WebマガジンONTOMO」(音楽之友社)エディトリアル・アドバイザー。
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