「ジャズと平成」シリーズ、今回はイタリアです。50~70年代のイタリアのジャズのレコードが復刻されたり、若手ミュージシャンがまるで50年代に回帰したようなスタイルのジャズを演奏して、それが若いリスナーに師事されたりしたブームを改めて振り返ります。
2000年前後ごろから突如、イタリアのジャズの話題が雑誌に載り始めて、レコードショップに50-70年代ごろのイタリアンジャズの再発のCDやレコードが入荷され始めた。それ以前にもヨーロッパのジャズは日本にもたくさん入ってきてはいたのだが、イタリアのジャズの情報なんてほとんどのジャズリスナーは持っていなかったし、ジャズ専門誌にもわずかにしか載っていなかった。おそらくエンリコ・ラヴァやエンリコ・ピエラヌンツィ以外はよほど熱心なヨーロッパジャズマニアでなければ知らなかったような状態だったはずだ。それが2000年代にちょっとしたブームになったのだ。
この連載の「#05 平成の幕開けとクラブジャズ」でも少し触れたが、1980年代前半にイギリスでハードバップやアフロキューバンなどのジャズをDJがかけて、それに合わせてダンサーが躍るムーブメントが生まれた。これはアシッドジャズやクラブジャズに繋がるクラブとジャズの関係の出発点のようなムーブメントで、そこからジャズのレコードをプレイするDJという文化が定着し、世界中に広まっていった。そんなムーブメントから影響を受けたDJはイタリアにもいたことが一つの契機だった。
ニコラ・コンテとジェラルド・フリジーナはそんなUK初のムーブメントからの影響を受けたイタリア人のDJでありプロデューサーで、イタリアンジャズのブームを起こした重要人物だ。
イタリアにはもともとハウス系のレーベルだったIRMA RECORDSというレーベルがあり、UKでのアシッドジャズの狂騒を独自のコンピレーション盤としてリリースしてイタリアに届けたりしていたし、そもそもIRMAからリリースされるものもUKのムーブメントから影響を受けたものが少なくなかった。IRMAのリリースを見ていても、イタリアではUKからの影響がクラブシーンでのトレンドだった様子がうかがえる。
そんなイタリアでニコラ・コンテとジェラルド・フリジーナは90年代の半ばくらいから、UKのクラブシーンやアシッドジャズを通過した感性でジャズバンドをプロデュースしたりするようになる。Paolo Achenza Trio、Quintetto X、Fez Comboなど、彼らが関わった初期のカタログを聴いてみると、James Taylor Quartet的なDJ向けの生バンドをアコースティックのジャズでやってみているような雰囲気もあり、同時にアシッドジャズ以前にもともとプレイされていた50~60年代のハードバップやアフロキューバンのような音色でDJ好みの音源を作ろうとしたような雰囲気もある。そして、彼らはSchema Recordsを立ち上げ、更に自分たちの音楽を推し進める。
彼らは1999年にレーベルの名前を冠したバンドのSchema Sextetの作品『Look Out (Tribute To Basso / Valdambrini) 』を発表する。トランぺッターのファブリツィオ・ボッソを中心にしたイタリアのジャズシーンの若手奏者が集まったこのバンドのデビュー作のコンセプトは、イタリアのジャズシーンにおけるレジェンドであり最重要人物的に存在だったトランぺッターのオスカル・ヴァルダンブリーニと、サックス奏者のジャンニ・バッソが結成していたバッソ=ヴァンダブリーニ・セクステットへのオマージュだった。
オスカル・ヴァルダンブリーニやジャンニ・バッソらは1950年代に、当時アメリカから入ってきたモダンジャズを模倣しながら、イタリアらしいジャズを模索していた。50年代はハードバップが中心で、その中でもアメリカ西海岸のウエストコーストジャズと呼ばれるサウンドが人気だったようだ。当時のヴァルダンブリーニやバッソの音源を聴くと、アメリカのレーベルで言うとWorld PacificやPacific Jazzあたりに吹き込まれていたジェリー・マリガン、チェット・ベイカーやアート・ペッパー、バド・シャンクらのサウンドがもとになっているのがよくわかる。特にマリガンに関してはカヴァーもしているし、マリガンに捧げた曲まである。
ハリウッドがあるアメリカの西海岸では映画音楽にも関わっていた譜面にも強くアレンジにも長けたミュージシャンがメロディアスで明るく洗練された楽曲の中にホットな即興演奏も組み込んだジャズを演奏していた。そんなウエストコーストジャズから影響を受けたイタリアのレジェンドの音源にニコラ・コンテらは夢中になり、それらを自分たちの音楽に反映させていった。
それが可能だったのは、Schema Sextet以外にも数多くのニコラ・コンテ作品に貢献しているファブリツィオ・ボッソらイタリアの若手ミュージシャンの存在だろう。『Look Out (Tribute To Basso / Valdambrini) 』の前年の1998年にボッソはJazz Conventionというグループで 『Up Up With The Jazz Convention』をリリースしている。これはイタリアの若手のバンドで、50-60年代に回帰したようなオーセンティックなハードバップ・スタイルのサウンドが印象的だ。その後もボッソはHigh Fiveというバンドを結成し、そこでも同系統のジャズを演奏している。アメリカではブラッド・メルドーやジョシュア・レッドマンらが登場し、コンテンポラリージャズが勢いを増していた時期に、時代の流れに逆行するようなオールドスクールなスタイルで演奏していたボッソらの存在があったからこそ、過去のジャズのレコードからサンプリングするように音楽を作るニコラ・コンテらDJたちが作品を作ることができたのは言うまでもないだろう。ゆえに、ファブリツィオ・ボッソや、ドラムのロレンツォ・ツゥッチ、ピアノのピエトロ・ルッスらはイタリアンジャズ・ブームの最大の功労者と言っても過言ではない 。
ちなみにニコラ・コンテらの影響源という意味では別の文脈もある。ヨーロッパのジャズシーンにはイタリア人のGigi Campiというプロデューサーがいた。50-70年代にドイツのケルンを拠点に活動し、ヨーロッパジャズの名門MPSなどに残っている様々な録音に貢献している。主に彼が手掛けていたのがヨーロッパに移住していたビバップ期のジャズドラムの巨人ケニー・クラークが、ベルギー人のピアニストで作編曲家のブランシー・ボランと共に結成したクラーク=ボラン・ビッグバンドとそのメンバーたちのソロ作品だ。こちらも洗練された作編曲と、ケニー・クラークとジミー・ウッドのリズムセクションによるグルーヴィーなリズムが特徴で、その中にサヒブ・シハブ、ベニー・ベイリー、エディー・ロックジョウ・デイヴィスといったアメリカから移住してきたミュージシャンたちのソロが乗るのが売りだった。特にサヒブ・シハブの諸作はニコラ・コンテらを虜にした。
そんなイタリアと関わりのあるヨーロッパのジャズに魅了されたニコラ・コンテらはSchemaの中にRewardというサブレーベルを作り、Gigi Campi関連や、イタリアンジャズ過去作をどんどんリリースしていった。それらのレコードがもともと希少だったこともあり、ほとんどの人は聴いたことがないどころか、存在すら知らなかった。数多くの海外のジャズがリリースされていた日本でさえそれらは「新たな発見」だったこともあり、イタリアのDJたちが紹介したバッソ=ヴァンダブリーニ、ジョルジオ・アゾリーニ、クラーク=ボラン・ビッグバンドやサヒブ・シハブなどはDJだけでなくジャズマニアをも刺激した。当時、 Schemaだけでなく、DJでレコードディーラーのパウロ・スコッティが運営するDéjà vuといったレーベルもイタリアのジャズを再発していて、それらのオリジナル盤のレコードは価格が高騰し、5桁になることも珍しくなかった。
日本ではジャズ喫茶店主でジャズ評論家の寺島靖国のようにウエストコーストジャズのファンがかなり多かったことや、DJが再評価したイタリアンジャズの多くが1950-60年代のアメリカのジャズのオーセンティックなスタイルをそのまま踏襲していたこともあり、コンサバティブな嗜好を持つ中高年のジャズリスナーの間でも受け入れられた。クラブ経由でジャズに出会ったばかりの若い世代から、オールドスクールなジャズのレコードを好んでいたベテランのジャズマニアまでと、幅広い世代が関心を持ったこともブームを後押しした。
イタリアンジャズのブームはDJ発信でありながら、DJカルチャーとは縁のない世代のジャズリスナーにも届いたムーブメントとして実に興味深いものだったと思う(後編に続く)。
柳樂 光隆
柳樂 光隆
1979年、島根・出雲生まれ。音楽評論家。元レコード屋店長。21世紀以降のジャズをまとめた世界初のジャズ本『Jazz The New Chapter』シリーズ監修者。共著に後藤雅洋、村井康司との鼎談集『100年のジャズを聴く』など。ライナーノーツ多数。若林恵、宮田文久とともに編集者やライター、ジャーナリストを活気づけるための勉強会《音筆の会》を共催。
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