テクノロジーライターの大谷和利さんが注目した、
みなさんも一度は目にしたことがあるだろうこのカタログの、話題性を高める販促プロモーションについてご紹介します。
たとえば自転車大国のオランダでは、年間の自転車盗難件数が国民の総人口よりも多い。つまり、統計的には、平均して年に1人1回は自転車を盗まれていることになる。
先進国の中でも治安のいい日本にいると実感がわかないが、欧米では依然としてこうした犯罪が多く、イケア・イタリアによれば、特にこの国は自社のカタログが人気で、よく盗まれているという。
本当にせよ、虚構にせよ、自国民を泥棒呼ばわりするプロモーションというのは、なかなかお目にかからないが、特にこのことでイケアが糾弾されたり、SNSなどで炎上したという話は聞かないので、おそらく言われたほうもそれなりに納得したのだろう。あるいは、こうしたユーモアあふれるビジュアルマーケティングを受け入れるだけの度量を消費者が持っているのかもしれない。
いずれにしても、イケアのカタログは、世界で2億1千万部以上配布されており、アプリ版も存在するが、今だに見応えある紙のカタログを楽しみにしている人もかなりの数に上るようだ。
そのため、郵便受けからはみ出していたり、職場でうっかりデスクの上に置いておいたり、あるいは自宅で読みながら寝落ちしたりすると、隣人や同僚、家族に持っていかれる危険性が高い(というのが、イケア・イタリアの主張である)。
世界中で人気のイケアのカタログは、特にイタリアでは盗難に遭う率が高い(という触れ込み)ため、あえて中身がわからないようにDIY用の公式フェイクカバーデータが用意された。
公式ビデオでは、ご丁寧に、会社のデスクに置かれたカタログを同僚が黙って持ち去る様子なども描かれている。
そこで、イケア・イタリアが講じた対策が、自社のカタログをそれとはわからないように偽装するためのカバーのデータをダウンロードできるようにし、プリントアウトしてカタログに被せてもらうという作戦である。
盗難対策として用意されたフェイクカバー。ここでは6種しか見えないが、実際には全部で10種類あり、データをダウンロードしてプリントすると、あたかも別の雑誌のように見えるカバーができあがる。
それを、ブックカバーの要領でイケアのカタログに装着すれば、たちまちマニアックで、購読者以外は興味を示さないような外観に変身するのである。
ここまで聞いても、どこまで本気でどこからが冗談だがわからないユニークなプロモーションだが、フェイクカバー自体は本気度100%で制作されている。それも超がつくほどマニアックな分野の出版物に仕立ててあり、誰かが見かけても一瞥するだけで、手に取ることさえしないと思わせるに十分な出来である。逆にいえば、この部分に手抜きがないからこそ、これがマーケティングとして成立するのだ。
使われている写真も、プロの手で撮影された、いかにもというイメージのものばかり。タイトル周りのフォントの選び方やレイアウト、グラフィックデザインのディテールにも抜かりがない。以下に、その中のいくつかをピックアップしてみた。
たとえば、これはキノコ愛好家のための雑誌。見出しには、「(お目当のキノコを見つけるための)犬の訓練の仕方」などの文字が踊っている。
こちらは「情熱スプーン」という誌名のフェイクカバー。料理によってスプーンを使い分けるというこだわりの食通のための雑誌だ。
このシックな表紙は「剥製術トゥディ」。古代エジプト時代の技術の秘密から、最新の剥製の作り方までを網羅している(らしい)。
「足の想い…」ということは、中高年向けのウォーキング雑誌のようだ。「雪なしでスノーシューズで歩けますか?」などチャレンジングな見出しが並ぶ。
「チェンジング・カタログ」と題されたこのプロモーションを改めて分析してみると、基本的にはSNSなどでの拡散を狙った話題作りであり、僅かな予算で効果を上げられるビジュアルマーケティングだ。
知恵を絞ってフェイクカバーのテーマやタイトル、見出しを考えれば、後は写真とデザインコストだけで済み、イケアのカタログをまだ見たことのない人には、盗まれるほどの人気ならば実物を見てみたいという興味を抱かせる。そして、すでにイケアのカタログに馴染んでいるユーザーやファンには、改めてイケアは面白い企業だと思ってもらえるのだから……。
いずれの場合も、消費者と企業間のエンゲージメントを高めることができるこのアイデアは、ビジュアルの力をひねり技で使った傑作プロモーションといえるだろう。
※図版は、すべて公式ビデオ<https://youtu.be/iKUGoGEo220>より