特定のコンセプトを「食」で伝えるフードアーティストの諏訪綾子
「コンセプトを胃まで届ける」ことを理念に、五感であじわい、
——諏訪さんの活動は、日本におけるフードアートの先駆けという印象があります。何がきっかけで、このようなフードクリエイションの活動を始められたのですか。
諏訪綾子さん(以下、諏訪。敬称略):金沢美術工芸大学のグラフィックデザイン科で広告の勉強をしていて、コミュニケーションデザインを学ぶ中で特定のコンセプトをいかに伝えるかを模索していました。学校で教わることは写真やグラフィックですが、もっと感覚的なもの、目に見えないようなデザイン、そういう表現ができたらと。
諏訪:あるとき、食べ物を素材にした表現をしてみて、「あっ、これなんじゃないか」とひらめくことがあって、食とアートが結びついたのです。けれども、大学を卒業したときはフードアートというジャンルもなかったし、自分のやりたいことが世の中になくて、雑誌編集などのアルバイトをしながら進むべき道を手探りしていました。そのときに、D&DEPARTMENT PROJECTのナガオカケンメイさんと出会い、「世の中にない価値は作ればいい」と背中を押していただいて、フードクリエイションの活動を始めました。
2008年に金沢21世紀美術館の学芸員の方から、「展覧会をやりませんか」と声をかけていただき、初めて「感情のテイスト」や「ゲリラレストラン」を発表しました。同時に伊勢丹新宿本店のフードフロアのリニューアルに際して「未来の食のあり方」をテーマに作品を発表してほしいと話をいただき、金沢21世紀美術館というアートの場とデパ地下という消費の現場で同じコンセプトを展開しようと「感情のテイスト」を発表しました。
——作品に対する反応はどのようなものでしたか。
諏訪:これはアートなのか食べ物なのか、どっちなのか?と。「食べ物で遊んでいるんじゃないか」と言う人もいました。海外、特にヨーロッパにはすでにフードアートやフードデザインというジャンルがあって、アートか食べ物のどちらかでなければならないという感覚はありませんが、日本は食に対して独特の価値観があり、受け入れにくかったのかもしれません。ですが、日本食にもフードアートに近いものはあります。懐石料理などに見られる見立てはアートの技法ですし、茶の湯なども体験のアート。フードアートを受け入れる下地自体はあったのではないでしょうか。
金沢21世紀美術館で初めて展覧会を開催したときも、そもそも美術館は飲食物持ち込み厳禁で、生ものを持ち込むなどあり得ないことでした。「あじわう」ことも表現になり得るということで、なんとか実現したんですけれども、最初は誰もが「作品を食べるなんて!」という見方をしていたと思います。
——「感情のテイスト」は、食に対する日本人の感情を裏切ったと思いますか。
諏訪:いいえ。私が裏切ったわけではなく、その人が枠を作っていたことに気付かなかっただけだと思います。ゲリラレストランなどでは、体験そのものにというよりも、自分の中にこういう感情とか本能的なものがあることに驚いた、と参加者が言ってくださるので。
——表現手段としての「食べ物」の魅力は何ですか。
諏訪:食べられることです。美大でいろいろな表現方法を学びましたが、食は五感で表現して、受け取り手も五感で体験でき、それを体内に入れることができます。内臓まで届いて、その人の肉体や思考の一部になるという点では究極の表現方法なのではないでしょうか。
人はどうしても、本能的にまずいものは食べたくない、おいしいものを食べたい、空腹を満たしたいという欲求が働きます。だからこそ、私は美食や栄養源ではない食の価値を追求したいのです。色や形がきれいなもの、香りや味のよいものに目が向くからこそ、そうではないものに素材としての面白さを感じます。好奇心を掻き立てられることから始まる「食べる」という行為で、自分の内面に変化がもたらされ、新しい感覚をあじわうという「体験」を作っていきたいです。
実際に、食を目の前にして体験することによって、私自身も想像していなかったことが起きたり、体験する人たちも思いもよらなかった展開になることもあって、それがとても興味深いのです。たとえば、初めてそこで会った人達が、2時間ほどの食体験をする中で恋に落ちることがあったり。
そうなるのは、言葉とか、言語での理性的なコミュニケーションよりも、感覚的な部分でコミュニケーションできることが大きいのではないでしょうか。お互いに自己紹介をしたわけでもなく、それほど会話をしたわけでもなく、単に食事を一緒に体験しただけ。非日常的な感覚とか体験を共有することで、深い部分でつながることができます。恋に落ちなかったとしても、体験した人にしかわからない感覚の共有とか、言葉ではない感覚的なコミュニケーションが確実にあると思います。
——諏訪さんが、表現方法として意識していることはありますか。
諏訪:五感はどちらかというと人間の外側に向いている感覚です。そこはもちろん意識しますが、できるだけ内的な感覚というか、内臓感覚にどれだけ触れることができるかというのはすごく考えます。
——その中でビジュアルはどのような効果を生みますか。
諏訪:私は、人は食べ物の50%程度はビジュアルであじわっていると考えています。もちろん情報も含めて。たとえば、レストランのメニューに写真と文字があったら、その時点で、今までの自分の経験や知識から想像できる味を舌の上に準備しているんです。それは、すでに料理の半分をあじわっているようなもので、実際に体内に入ってきたときに、思ったよりもこうだったというあじわい方をしています。
そもそも見た目が食べ物なのか、得体のしれない物体なのか、どういうシチュエーションで食べ物と出会うのか、誰が持ってくるのか、そこにどんな情報が付いてくるのか、あるいは何も説明がないのかでは、想像するあじわいは違ってきますよね。シチュエーションを含めたビジュアルは、あじわいに大きな影響を与えると思います。
——ビジュアルを作り込むときは何を意識しますか。
諏訪:写真作品の場合と、実際に食べられる作品の場合とでは少し異なります。写真の場合(後々、残る形態)の場合は、「時間経過」を意識します。2時間後に見ても、1年後、10年後、100年後に見たとしても、鮮度を持ってあじわえるか。食材の鮮度ではなく、私が目指しているコンセプトが、10年の時間が経ってもその状況であじわえるかを考えます。
食べて消えてしまう作品の場合は、「記憶」を意識します。食べるときは一瞬です。どういう時間軸や空間で食べるという行為を行うかという体験なので、最後に残るのは体験者の記憶。しかも記憶の全てが細かく鮮明に残るのではなく、凝縮されたエッセンスが残るんです。ですから、どこにフォーカスしてそのエッセンスを抽出してもらうかを考えます。入口としてのビジュアルはもちろん重要ですが、その先の感覚的な体験が生み出す記憶をあじわいとして調理していきます。
——そういったインスピレーションはどこから得られるのですか。
諏訪:自然からです。一瞬吹いた風、雨の匂い、花の中にびっしり詰まった花粉など。私は能登半島で生まれ育ちました。山や海も近かったので野生児のように遊びまわっていた子どもの頃は大人のように知識や情報がないので、見るもの見つけるものすべてが不思議で自然の驚異に魅了されました。
潮の流れで海に真っ青なクラゲが大量に打ちあがったり、見たこともない海藻や魚の死骸があったり。山へ行けば見たこともない木々や動物の死骸、花粉とか、そういうものに好奇心を掻き立てられ、それらを食材に見立ててお料理を作り、友達に振る舞う遊びをしていました。子どものときって、美しいものだけでなく、何かの死骸のような気持ち悪いものでも、怖くてグロテスクなんだけれども見入ってしまう。その頃の好奇心と美意識が今も私の中にそのままあるんです。
——諏訪さんが探求してきたコミュニケーション手法としてのフードアート。今後、どのような方向を目指していますか。
諏訪:これまでは、食べ物を通して、時間や空間、ストーリーを作り出すことで記憶のエッセンスとなるあじわいをつくる「体験のデザイン」をしてきました。五感に訴える表現は当たり前になってきているので、もっと深い内的な感覚にダイレクトに触れられる表現をしていきたいです。何か特定の感覚的体験をすることで意図する感情や心理状態を作り出す、という実験的なプロジェクトを進めているところです。
——「食べる」という欲望を満たすことで人は進化してきたと思います。テクノロジーによる進化はスピードアップしているけれど、果たして人間の感覚は進化しているのでしょうか。
諏訪:実は、現代の都市で生活している私達よりも、太古の昔の狩猟採取をしていたときの人間のほうが感覚が研ぎ澄まされて洗練されていたと思います。食べたら死ぬかもしれないものを全神経を集中して食べたり、あじわっていたはずですから。その感覚は、今の時代の私たちは使わないので、持っているけど眠らせているんじゃないかと思うんですよね。そういう部分を湧き起らせてスイッチを入れることで、現代の人間の新しい進化があるならば、それを見てみたいですね。