vol.52
映画『アートのお値段』特別試写会
巨大化する世界のアートマーケットの裏側を解説
「アートを買う」とは何を意味するか
そんな問いを投げ掛けるドキュメンタリー映画『アートのお値段』の公開に先立って開催された、今回の特別試写会。試写会終了後には、美術ジャーナリストの鈴木芳雄さんを迎え、アートフォトマガジン『IMA』エディトリアルディレクターの太田睦子とのアフタートークが展開されました。
近年のアート界での「お買い物」で記憶に新しいのは、ジャン=ミシェル・バスキアの《無題》はZOZO創業者の前澤友作氏によって約123億円で落札され、デイヴィッド・ホックニーの《芸術家の肖像画ープールと2人の人物ー》は存命のアーティストの最高額と言われる約102億円で落札されたニュース。次々と巨額のやり取りが行われる現代アート市場とは、どのような仕組みで成り立っているのでしょうか。
映画にも登場する、アーティストやコレクター、オークショニア、ギャラリストなど、市場を取り巻く人々の言葉を振り返りながら、「アートとお金の関係」について解き明かしていただきました。
太田睦子(『IMA』エディトリアルディレクター/以下、太田):今回の企画は、私が鈴木芳雄さんから「『アートのお値段』というおもしろい映画があるよ」とお話を聞いたことがきっかけです。「アートを買う」とはどういうことか、編集者の大先輩である鈴木さんと一緒にお話ししていきたいと思います。
鈴木芳雄(編集者/美術ジャーナリスト/以下、鈴木):僕は今回、劇場で販売される『アートのお値段』のパンフレットに文章を書かせてもらいました。そのタイトルは、「これはショッピングではない、ゲームである」。アートは普通の買い物とは違い、単純な需要と供給で値段が決まるというわけではありません。
太田:それから、原価で決まるわけでもないですよね。
鈴木:そうですね。値段が高いことが大事、と言うこともできます。アートコレクターのなかには「高いから買う」方もいるので、このタイトルを付けました。僕はこの映画を何回も見ましたが、見れば見るほどディテールに気付きがあるんですよね。いまみなさんにも映画を見てもらったので、シーンをおさらいしながらアートの値段がどう決められているのかとか、いろいろと突っ込んでお話ししようと思います。
鈴木:映画はオークションのシーンから始まります。熱気高まるオークションの光景を冒頭に持ってくることで、観る人を映画に引き込む効果があります。この最後のシーンに出てくるのが、ジャン=ミシェル・バスキアの《無題》です。この絵は、ZOZO創業者の前澤友作さんが123憶円で落札したものです。
前澤さんは「40億円のものを3個買うのではダメ」だとおっしゃっていました。120億円のものを1個買わないとこの世界では目立てない。作品を買ってみたら、レオナルド・ディカプリオが電話をしてくるし、彫刻作品で最高値を付けたアーティストのジェフ・クーンズが家に遊びに来て、彼が絵を描いた年のムートン・ロートシルトのボトルにサインしてくれる。
太田:前澤さんはそのことも分かっていて、買われたということですか?
鈴木:アートを買うなかで、分かってきたことなんだと思います。もうすぐ東京で『バスキア展』の開催が予定されているので、われわれもこの作品を近くで見ることができますね。
その後、映画ではニューヨークにあるジェフ・クーンズのアトリエのシーンが描かれていました。そこでテオドール・ジェリコーの《メデュース号の筏》が出てきます。本物のジェリコーが描いたものはルーヴル美術館に所蔵されていますが、クーンズのアトリエのスタッフがこの絵を描いて複製していました。つまりこの映画は、ほとんどニューヨークでしか撮影されていないということです。
そこで、インタビュアーはクーンズに聞きます。「あなた自身が描かないのは問題ない?」と。これはよく、村上隆も言われることです。
太田:この映画は、アートを自分自身で描く/描かないみたいなことや、複製とは何だろうといった、さまざまな問題がたくさん出ていますよね。
鈴木:そうです。それでクーンズは、自分の指に“こうしろ”と指示するのと同じで「私自身が描いているんですよ」と言うわけです。
鈴木:この映画では、現代アートに関わる「プレーヤー」として多くの登場人物の存在——作品だったり、ドキュメンタリーフィルムのインサートだったり——が描かれています。故人で言えばバスキアやアンディ・ウォーホル、最前線ではないにしても長老格の人だと、デイヴィッド・ホックニー。彼の絵は、生きている作家のなかで最高落札額を記録しています。草間彌生もいま活躍している作家ですが、超然としているところがありますよね。じゃあ、次のスターは誰なんだというところで上がってくるのが、バリバリのプレーヤーであるクーンズなわけです。
2000年頃に太田さんとは別々の雑誌で、同じアーティストを取材したりしていましたが、クーンズにも取材しましたね。
太田:そうでしたね。
鈴木:僕も一度、東京で会いました。“ゲーム”に参加するためには作品を量産しなくてはならない。自分で描くことが大事とか言っていたら、プレーヤーとして君臨できないわけです。だから村上もクーンズも自分の責任と指示のもとで、スタッフやアシスタントによって作品をつくり続ける。
太田:ウォーホルの「ファクトリー」と言われる、作り手のスタイルですね。
鈴木:そうですね。クーンズのアトリエのシーンに出てきたのは、ルネサンス時代のイタリア人画家であるティツィアーノ・ヴェチェッリオの絵に「ゲイジング・ボール」というものを付けて、見る人を絵のなかに入り込ませるというものでした。そういう、ひとつの仕掛けを施しているわけです。
太田:名作にゲイジング・ボールを付けて鑑賞者と作品を溶け込ませるスタイルは、クーンズの代表作であるウサギの彫刻作品からずっと用いている手法です。こうしたモチーフはルイ・ヴィトンのバッグとのコラボにも起用されている人気シリーズですよね。
鈴木:この映画には次々とアート市場を構成する人々が出てきます。アーティストがいて、ギャラリストやキュレーターもいる。オークショニアやコレクターや評論家もいます。そのなかでも非常に濃いキャラクターとして登場するのが、オークショニアのエイミー・カペラッツォとコレクターのステファン・エドリスです。
彼もクーンズ作品を所有するひとりで、映画のなかでも有名なスチール彫刻作品の「ラビット」や、フランスの写実主義の巨匠であるギュスターヴ・クールベの《眠り》にゲイジング・ボールを組み込んだ作品などを披露していました。
そして、なんといってもこの映画の肝は、オークションハウスのフィリップス会長兼最高経営責任者であるエド・ドルマンです。彼が大事なことを言ってしまうわけです。
彼が言うには、90年代に巨匠たちが描いた作品がどんどん美術館に入ってしまい、品切れになっていったと。それ自体は良いことだけど、オークションハウスとしては作品がないと運営できないという、困ったことが発生したんですね。そしてアート市場は縮小してしまう。まったく作品が市場に出てこないわけではないけど、出てきにくくなったことで“玉”が回転しなくなるわけです。
一方でスーパーカーに乗ったり、自家用ジェットを買ったりする、“新しいもの”を渇望する、若い富裕層が出てきました。しかしアート市場には“玉”がない。じゃあどうすれば良いかというと、「現代アートはいまつくられている、無限に供給することができます」と彼は言うんです。
ここは「えー!」って思いません? アーティストが素晴らしいアート作品を生んでくれたから買う側は高くても買うとか、みんなが欲しがるからオークションによって価値が高くなっていくとか、そういう関係性ではないということです。お金を使いたい富裕層がいて、そこにビジネスチャンスがあるから「供給してやらなきゃ」ということを意味している。「え、そっちが先なの?」って、思いますよね。
太田:意外な事実ですよね。欧米には非常に大きなアート市場があるのに対して、日本の市場はなかなか育たないとよく言われますが、欧米の市場は自然と成長してきたわけではなく、人が作為的に「つくってきている」んですよね。
先日、「H」のイベント「ブロックチェーンはアートマーケットを再構築するのか」で、ギャラリストの小山登美夫さんに登壇いただきましたが、アメリカは歴史のない国で、古いアートを持っていない。だからアートをたくさん買って、それを原資に現代アートにどんどん投資していった。そうすることで市場をつくっていったのだと、小山さんもお話しされていたんですよ。
鈴木:市場をつくった中心人物というのは、戦後のアメリカ美術を牽引したギャラリスト、レオ・キャステリとかだったり、現在で言えば、この映画にも出てきたメアリー・ブーンだったりするわけですよね。
彼女は、1977年にニューヨークでメアリー・ブーン・ギャラリーを設立しました。先ほどエドリスが所有していたクーンズの、クールベの《眠り》もブーンのギャラリーで紹介されたのが最初です。バスキアも、彼女のおかげで世に出たと言っても過言ではありません。僕も彼女のギャラリーを何度も訪れましたが、とても素晴らしかった思い出があります。この映画にはギャラリストとして、ロサンゼルス現代美術館の館長ジェフリー・ダイチも出てきますね。
太田:日本人は市場に対して、もう少しなんというか、ピュアというか……。
鈴木:そうですね、ナイーブな感じがします。それから日本の美術品の売れ方は、長く百貨店などが握っているんです。いまでも、日本のアートはそのシステムから抜け出ていない感じがあります。
太田:ロンドンでは90年代、ヤング・ブリティッシュ・アーティストの動きが盛り上がっていきましたが、その背景には学校や雑誌やテレビ局などのメディアが密接に関わって、戦略的につくられていったんですよね。マーケットは自然発生的には生まれてこないんだと、改めてこの映画を見て思いました。
鈴木:アーティストの「再発見」もビジネス的です。この映画で言えば、ラリー・プーンズ。彼はニューヨーク北部のアップステートに住んでいるアーティストで、60年代に抽象表現主義で一世を風靡した。
いまはちょっと忘れられてしまっていると、本人も言っていましたね。「死んだと思われている」って。でもそういった人を、発掘していく人がいるわけです。日本で再発見がうまいのは、小山登美夫さんだなと思います。そのあたりの“目”というのは、彼は非凡だと思います。
鈴木:ドルマンのシーンの話に戻りますが、彼はいま巻き起こっている現代アートバブルについて、「現代アートがこれほど重要になるとはだれも想像していませんでした」と言っています。もう、暴走しちゃっている感じなのかもしれません。
現代アートが活発になることで、美術館の建築も盛んになりました。建築家たちは大忙し。一方で、シャンパンは世界中からなくなっていくし……。シャンパン業界は伝統的にアートをメインにスポンサードしていて、そうしたラグジュアリーを思わせるビジネスも絡んでいますね。
太田:いま、ファッションブランドもアートと繋がりたがっていますし、実際にうまく協業しています。その辺りの状況もすごくよく描かれていました。
鈴木:そもそもアート市場を仕掛けている人自体が、ファッションビジネスのトップだったりします。ルイヴィトン財団は、建築家のフランク・ゲーリーが設計したルイヴィトン財団美術館を設立していますし、ケリング・グループ総帥のフランソワ・ピノーはいま、安藤忠雄さん設計の美術館をパリにつくっていますしね。
鈴木:プーンズの話をもう少し。クーンズや村上は積極的にゲームのプレーヤーとして勝ちにいこうと考えているのに対し、プーンズは常にそこから降りるという方向性です。同じことはやらないという感じですよね。
太田:そうですね。プーンズはマーケットではウケるものをやれば売れるのは分かっているけど、そこに止まらず変化していきたいと考えている人。「プーンズ」と「クーンズ」で、一字違いでうまく対比にもなっていましたが、対極にいるふたりですよね。
鈴木:僕は彼の作品を見たことがないですが、「違うものをつくり続けたい」と言う彼の作品を見てみたいです。映画の最後にはなかなか泣かせる演出もありましたよね。
それから、抽象画家のゲルハルト・リヒターも出てきていました。リヒターは美術館に作品が展示されることを好んでいる人です。この人はアート界の頂点にいるような人ですから「金は汚い」といった“かっこいいセリフ”も言っていました。
鈴木:一方で、サザビーズのオークショニアであるカペラッツォが、美術館に対して「まるで墓場よ」と言うシーンがありました。アーティストの論理とオークショニアの論理、立場が変われば大きく違うわけです。このプレーヤー間のぶつかり合いも見どころです。
鈴木:よく、お茶道具の世界なんかでも言われますが、伝統的なお茶家に道具が入ると、もう世に出回らないわけです。いつのまにか「先祖から伝来していまして……」みたいなことになるのは骨董屋としては不都合なこと。オークショニアにとっても、美術館に作品が入るのはそういうことだと思います。
骨董屋や美術商はいまそこにあるものを買い取って、また売る。物は一つひとつの物なのに時代ごとに稼げることが重要なわけです。リヒターが “かっこいいこと” を言えるのは、ほぼ頂点にいるからなんですよね。草間やデホックニーも、そうだと思います。ゲームに参加しないけど、もう勝者な人たちもいる。
タジリ:映画でも描かれていましたが、アメリカでは作為的にマーケットがつくられてきた歴史があります。そんななか、おそらく一部の日本人もそれを理解していて、戦略を立てたのではないかなと思うんです。しかし現状、日本の現代アート市場はそこまでではない。その辺りがうまくいかなかったのはなぜだと考えられますか?
太田:日本人はアートを買わなかったわけではないと思うんです。だからいまも銀座にはたくさんの画廊があって、ある時代に洋画や日本画を買っている層が少なからずいたからですよね。ただ「現代美術」に関して、うまくブリッジできていないんだと思うんです。
「なんでも鑑定団」は人気長寿番組だし、そこからはすごい骨董品が出てきたりするじゃないですか。だからアートを買うことに対する素養はあると思うんです。ただなんとなく「現代美術」と言うと、理解できないとか、買いづらいとか、買う場所が分からないというイメージがあるんだと思います。しかし条件がピタッと揃えば、もしかすると大きなマーケットになっていくのではないかなと。
鈴木:単純に、セカンダリーマーケット(二次流通)をうまく創設できていないんだと思います。
太田:二次流通、オークションハウスやセカンダリーを扱うギャラリーですね。
鈴木:そうそう。そういうものは「格が低いもの」だと思っているかもしれないけど、そんなことはないと思うんですよね。
太田:そうですね。私も一度、ニューヨークのクリスティーズで村上さんが東日本大震災のチャリティオークションをされた際に、現地に行きました。とても興奮しましたね。
鈴木:あれは覚えています。「One Day」ですね。作家はそうそうたるメンバーでしたよね。村上自身の作品はもちろんのこと、ダミアン・ハースト、クーンズ、奈良美智、カウズ……。普通のオークションハウスでもできないようなことを、村上はやったわけです。あのチャリティオークションのために、村上は自らアーティストたちに会うために世界中に直談判に行った。さらに終わった後にも、「ありがとうございました」と世界中に挨拶に行きました。それで4億円くらいの寄付になったわけです。
太田:オークションって、競売にかけられる作品ごとに入札額が500万円、1800万円、8000万円、3億円とあっという間に高騰していきますよね。そういうのを見ていると、感覚がだんだん麻痺していって、入札開始価格が2000万くらいだと「あれ、安いな」とか感じるようになる(笑)。安いなと思ってももちろん自分で買えるわけではないんだけど、ある種の錯覚とあの会場の高揚感が重なると、「買える人」だったら買っていくと思います。
日本ではまだまだ現代アートを買うことが浸透していませんが、それは私たちメディア側がきちんと伝えられてない側面もあると思います。現代アートの価値やおもしろさ、それを買うことの意味について、きちんと伝えていきたいですね。
鈴木:結局、アートを買うことは“ゲーム”と言いつつ、やっぱり“買い物”だと思うんです。作品を買うことを通して、きっとみんないろいろなものを買っているんだろうなと。
もともとは価値が付いていないものに価値を付けて、みんなが欲しがるように仕掛け、高い値段で売買するから市場が成り立っているわけです。実はそれを何年も前に言っていたアーティストがいました。
その人いわく、「価値とは何かを考えることだ」と。彼は、古美術商の時代から何が価値かを考えて、現代美術家として価値を創造してきました。現代美術をつくって一生懸命稼いだお金を古美術に投資したり、それを展示する場所につぎ込んだりしてきたわけです。さすが、立教大学経済学部卒っていう。誰かと言うと、杉本博司です。この辺りの彼の動きもアートとビジネスにおいて見るべきところです。
価値が付けられるという点では紙幣も同じです。1万円札の製造コストは20円ちょっとらしいですが、みんな1万円は欲しい。1万円あればおいしいものも食べられたり、誰かに頼んで何かサービスを受けられたり、いろんなことができる。たくさん貯めれば車だって、ヨットだって買えます。これが20円の価値しかなかったら、みんな欲しがらないわけですよね。
それと同じで「123億円の絵」という認識があるからこそ、とびきり高い金額のものとして取引がされる。いろいろな“道具”になったり、ときには悪い使われ方をしたりします。ある意味「疑似貨幣」というか、通貨のようなものです。アートにはそういう役割もあるのかもしれません。
太田:だからアートって、その作品を買うようで、実は「歴史」だったり、「名誉」だったり、「人からの羨望」といった、目に見えないいろんなものを買っている。目に見えないものがたくさんくっついているわけです。アートとはそんなちょっと不思議なものだと思います。
タジリ:映画の登場人物たちを通して、数字で示す値段という価値だけでなくそれぞれがさまざまな価値をアートに与えているのだと感じました。今後、現代アートの価値がどう変化していくのかも気になるところです。本日はありがとうございました。