メディアの未来を作るのはいつの時代も「尖ったヤツ」

vol.11

ぼくらはこれからもメディアに夢を見ることができるのか?

Text by Mitsuhiro Wakayama

SNSや電子書籍が普及して久しい昨今、「誰もがメディアになれる時代」になったと言われています。こうしたウェブメディアが活況ななか、紙のメディアは古くさいものとなり、近い将来、やがてマーケットから駆逐されてしまう未来なのでしょうか。

『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さんが見る「メディアの未来」は、そうした視点とはまったく別にあるようです。「メディア特性のビジネスモデル」「社会化する情報」など、さまざまなキーワードによって現代の私たちを取り巻く今日的な状況が見えてきました。


メディアは「民主的」なものではありえない

『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さん(右)と、『IMA』エディトリアルディレクターの太田睦子
『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さん(右)と、『IMA』エディトリアルディレクターの太田睦子

タジリケイスケ(「H」編集長/以下、タジリ):最初のテーマは「紙メディアに未来はあるのか?」です。10年くらい前から「紙メディアの売り上げは頭打ちで、今後ますます売れなくなる」と言われてきましたが、紙メディアの現状と未来について、おふたりはどのように見られていますか?

若林恵(編集者、『WIRED』日本版・元編集長/以下、若林):『電子書籍の衝撃』という本が出たのが、たしか2010年のことだったと思います。これ、なぜか誰も指摘しなかったんですが、この本に関する重要な問題は「なんでこの本が紙で出ているのか」ってことなんですよ。電子書籍やSNSがもたらした創発なんかを賛美する本はたくさん出版されているんですけど、デジタルのよさをうたう本が、なんで紙の本で、しかも本の中で批判されている、権威的な旧メディアを使って、大エスタブリッシュメントである出版社から出てるのか。

『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さん
『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さん

そのころ「ひとり1メディアの時代」とか言われて、誰でもメディアになれますよっていう、いまとなっては明らかなミスリードがなされたわけなんですよね。インターネットメディアは民主的で、誰でも情報の発信元になれると。それはそうなんですよ。でも、それとちゃんとしたパブリッシングをやるって話は別ですから。その仕事にずっと関わってきた人間からすると「おい、ちょっと待てよ」となるわけですよ。技術的なことだけ言っても、その原稿、誰がチェックすんのって問題が、すぐさま出てくるわけです。

誤字脱字をゼロにするために、校閲者を含め、最低でも2〜3人が目をとおすってことを、普段やってるわけなんですよね。で、それが内容の妥当性の判断とかいう問題になると、これはもう、熟慮を経て、誰かが決定を下さなくてはならないわけで、そこでは「創発」なんていうのは、なんの意味もないんですよ。どうしたって権威性を発動しなくてはならない局面はあるんですよ。

どんな仕事でもそうじゃないですか。価値や質を担保しようと思ったら、「民主性」なんて言ってたらできないわけですから。そもそも価値ってのは、そういうものじゃないですか。ある恣意的な判断基準によって物事を階層化することを、価値付けって言うんですから。

「ひとり1メディアの時代」も結構だけども、それはただ野放しにしたところで、「価値」っていう概念すらない空間しかできないんですよ。創発や民主的メディアの代表選手であるウィキペディアが、そういう空間になっていないのは、ある価値軸に沿って、記述の妥当性を判断するエディターがいるんですよ。そういう「権威性」を一概にないがしろにして、民主性とか言うのって、よっぽど世の中のことわかってない人か、わざと嘘をついてるか、って気がするんですけどね。

『レミーのおいしいレストラン』っていう映画、皆さん観たことあります? すごく大雑把に説明すると、ネズミのレミーがフランス料理のシェフになるっていう話なんですが、これ、この論点からいうと本当に重要な映画なんですよ。というのは、この映画は「誰でもシェフになれる」というテーゼをめぐって展開されるものなんです。

レミーはもともと料理のうまいネズミで、見習いシェフのリングイニに指示を出して料理をつくり始めます。その料理は評判になるんですが、あるときレミーとリングイニの結託がバレて「ネズミのつくったものなんか食えるか」と周りから相手にされなくなってしまう。しかし、そこに著名な人間の料理評論家がやってきて、レミーの料理を大絶賛するんですね。一時は「ネズミはシェフにはなれない」ということを悟ったレミーでしたが、これによって晴れてシェフになったというお話。

「誰でもシェフになれる」って言葉をどう理解するかってことなんです。「誰もがみんなシェフになれる」って、ここでは字義どおりの意味ではないんです。むしろ「誰にでもなれるわけではない」。ただし「本物の才能と情熱があるならば、一流のシェフはどこからでも出てくる可能性はある」という意味なんです。何が言いたいかというと、チャンスは誰にでも平等にあるけど、結果というものは、決して平等ではありえないってことなんです。そこでは選択や淘汰が必ず起きる。

「誰でもメディアをやれる」っていう話も、これと構造的には同じです。インターネットがいかに「民主的」なメディアであろうと、越えなきゃいけない壁の厚さや高さは変わらないわけです。本当に、エスタブリッシュメントを打倒する、あるいは肩を並べるものをつくろうと思ったら、よっぽどの才能と情熱とアイデアがないと絶対にダメなんですよ。それは片手間にやろうって、それで旧来の権威に対するカウンターになるわけないじゃないですか。で、そういうことをちゃんと言わないで、「みんなやれるよ」なんてお為ごかしを言うわけなんですが、そう言ってる当人は、旧来の「権威」の傘のなかからそれを言ってるわけです。それって結構な矛盾というか、欺瞞じゃないですか。

メディアが「局所最適」を目指す理由

太田睦子(『IMA』エディトリアルディレクター/以下、太田):ウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という本を2010年に出しました。ふたりの対談を収録したこの本は、紙の書物の未来は「ある」という結論からスタートしています。技術革新の結果、古い技術が新しい技術に駆逐されるように思われるけど、それは違うとふたりは言います。それは技術のバリエーションが増えるだけで、個々の技術は最適に機能する場所にずっと残り続けるんだと。

たとえばスプーンは何千年も前から人類が使っているオーセンティックな道具ですが、物が豊かになった現代の私たちも変わらず便利に使っています。同じように、紙の本も人類史上まれに見るほどの「最高の発明であり、完成度の高い道具」だというふうに評価しています。

つまり、「紙の本にしかできないこと」があるってことだと思うんですよ。2012年に『IMA』を創刊したとき、デジタルメディアがどんどん増えている時代になんでいまさら紙の雑誌なんてやるのって言われました。でも、『IMA』は10数種類の紙を使い分けていて、写真雑誌としては理にかなった設計をしています。なんでそんな一見無駄なことをしたか。ウェブメディアでは絶対にできないことをしようと思ったからです。

太田睦子・『IMA』エディトリアルディレクター
太田睦子・『IMA』エディトリアルディレクター

以前、国立国会図書館を取材したとき、膨大な所蔵本の書庫を見せていただいたことがあるんです。日本中の刊行物がすべて集まる書架の中で、かなりの棚を占拠していた本ってなんだと思いますか? 実は、日刊のアルバイト情報誌の合本なんですよ。「これ全部残すんですか?」と尋ねたら、「はい、歴史的な価値があるんです」って。

つまり、「昭和〇〇年△月頃の時給はいくらか」みたいなことを知りたいと思ったときに、その膨大なアルバイト情報誌が必要になってくるわけですよ。いまはこういう情報誌も紙ではなくデジタルに取って替わられてしまいましたが、ともすると、100年後に現在の時給や職種を調べるのは不可能になっているかもしれません。つまり、「後世に残す」という点においては、紙であることが重要な意味をもってくるということです。

若林:紙の永続性っていうものの重要性は、そのとおりですよね。つまり、それは間違いなくデジタルメディアとは異質な特性をもっているってことなんです。逆にいうと、その特異性に最適化されたコンテンツを、デジタルメディアに一生懸命移植しても、うまくいかないだろうってことでもあるんです。つまりデジタルにはデジタルメディアの特性に合ったコンテンツが必要だということなんです。

テレビが出てきたときに、もう誰も映画館なんか行かないだろうって言われたのと一緒ですよね。でも、結局は、まったく違うコンテンツのあり方になっていく。近い将来語られるであろうことは、「ある時期、人は『デジタルと紙の違い』について本気で議論していたけど、それって本当にばかばかしいよね」ってことなんじゃないですよね。つまり、比較していることそれ自体が既にナンセンスという。

「紙の本にしかできないことがある」っていう話がありましたけど、僕も太田さんも、基本は雑誌編集者なんです。なので、いま雑誌のすべきことってなんだろうって考えるんですよ。雑誌の黄金時代って、今から大体100年くらい前だと言われているんです。1910年代から1930年代っていうのは、新興メディアとして非常にアクティブだったんです。アメリカもそうですが、ドイツなんかでもそうなんです。批評家のヴァルター・ベンヤミンなんかも雑誌の編集長をやることになってたんです。実現はしなかったんですが。

で、そのベンヤミンが雑誌に与えようとしていた使命って、新聞を仮想敵として、その権威性を相対化しようとすることだったんです。新聞は企業や政府にぶら下がって息をするようにデマを流すものだ、みたいな認識が当時のヨーロッパではあった。その情報は極めて均質的で、ある種の常套句の多用で同じようなパッケージの情報ばかりを人々に提供していると。なので、均質化と画一化の先にある大衆社会というディストピアの完成を、新聞は強く後押しする装置なんだと、ベンヤミンや、彼が大きな影響を受けたカール・クラウスなんていう人が厳しく弾劾するわけです。

つまり、時代のアクチュアリティを新聞は覆い隠している。だから、その裏側にある、時代の真実を捉えるものとして、雑誌というものを考えてるんです。ウェブメディアが出てきたときに、デイリーでニュースを出すということが早々に始められました。で、雑誌もそれと同じように日々のニュースを追おうとした。でも現場としては違和感があったわけですよ。だってそれって新聞のモデルなんですよ。それ、ぼくらの仕事じゃないんですよね。

でも、ウェブと新聞は親和性が高いんですよ。デイリーで、即効性があって、ずっとサブスクリプションモデルでやってきたわけだし。でも、雑誌は「いまイタリアン、キテるよね」とか、「このミュージシャン、アツい」みたいな、デイリーでなくてもいい情報を扱ってるんですよ。それってニュース的な価値はないんですけど、それが捉えきれてない時代のアクチュアリティを扱ってるんですよ。

なので、新聞的なコンテンツはデジタル空間のなかに既存のモデルをスライドしてマネタイズすることができたんですけど、雑誌的なものは、そこでは、それにふさわしい表現とビジネスモデルを見つけられてない感じはするんですよ。

ウェブメディアは「最適なビジネスモデル」を目指す

タジリ:サブスクリプション型のビジネスモデルは「購読料」がコンテンツへの対価として支払われることで成立しています。一方で、ほとんどのウェブメディアは「PV至上主義的」になっていて、コンテンツの価値が問われることはなかなかありません。

若林:雑誌の仕事っていうのは完全に製造業なんです。5万部の雑誌をつくったとしたら、5万人の人間を相手に商売をするっていう話なんですよね。「生産量」ってものがあるんですよ。それがラジオやテレビのような電波モデルのメディアとは決定的に違うんです。そこには、基本的に生産量っていう概念は存在しないですよね。だって、配信した瞬間みんなに届いちゃうんだから。

で、ラジオやテレビには、それ自体を課金する術が長いことなかったんですよ。加算的な要素といえば、アンテナ立ててその電波を受信する人間が何人いるのかってことくらいで。だからいまだにテレビ局がアンテナ立てている人間のところに直接集金に行くっていう原始的なシステムを取らざるをえないわけです。うまい課金システムをつくれなかったので、だからこそ広告に頼らざるをえなかったわけで。

「PV至上主義」に絡めると、視聴率っていう概念がありますよね。これは母集団が日本の全国民なわけです。ここで既に一般的な製造業の考え方とは違うんですよ。つまり何が言いたいかというと、電波モデルと製造業モデルは違う業態だってことなんですよね。どっちがいいって話ではなく、ただ、違う。で、問題は、ウェブメディアは果たしてどっちなんだってことなんですよね。

『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さん

原理的には電波モデルに近いんです。基本、みんなに届いてしまうし、生産量って概念もない。新聞は、コンテンツは「日本全国民」をターゲットにしたものでも、コンテンツのつくり方はそんなに変わらないんですけど、雑誌つくってた身からすると、5000万PVとか言われても、よくわかんないんですよね。テレビやラジオ、新聞業界の人ならそこにリアリティが持てるのかもしれないですけど。

1970年代末、雑誌が広告を掲載するという方向に業界が明確にシフトしました。誌面という名の不動産を切り売りするような感じで、スポンサーの広告を載せていった。すると、スポンサーは「ここは俺の土地なんだから、俺が好きに使っていいよな」って言い出すわけです。そうやってクライアントの要請に従っているうちに「あれ、結局おれら下請け?」ってなっちゃった。

僕が思うに、雑誌が売っているのは「読者へのアクセス権」なんだと思うんですよ。僕ら雑誌は読者を持っています。読者とは何かと言うと、同じような価値観や文化を共有した人たちの群ですよね。生産者が任意の群にアクセスするための権利を貸与しているというのが僕なりの「広告ビジネス」の見立てです。

太田:ウェブメディアの評価基準は発展途上で、現状PV数くらいしかありません。アクセス権を売るっていうのは、仲介することで発信した情報の価値を上げることですよね。それはメディアの価値を測る基準として、もっと認知されていいことだと思うんです。

若林:そうそう。仲介されることで情報の価値が上がるっていうのは重要なことですよ。たとえば「俺いいやつなんだよ、付き合っちゃいなよ!」って女の子に直接言っても信用してもらえないじゃないですか? でも、友だちを介して「若林くんっていい人だよ、付き合ってみたら?」って言われたらその気になる子もいるかもしれない。伝わっている情報は一緒のはずなんだけど、経路をデザインするだけで全然違った情報に感じるわけです。

『WIERD』日本語版・元編集長の若林恵さん、太田睦子・『IMA』エディトリアルディレクター

「社会化」と「尖ったヤツ」が切り拓く未来

若林:でも、また別の次元で、ウェブメディアにはさらに大きな問題があるんです。それは、必然的に一対一のコミュニケーションにしかならないってことで。自分が見ている情報が「誰と共有できているのか」がわからないし、自分がその情報を見ていることを「誰も知らない」っていう意味において、個々のコミュニケーションがブラックボックス化されてしまっているんです。

電車の吊り広告って、なるほど意味があるなって思ったのは、あれは、「他の人が見ている情報を自分が見ている」という点なんですよね。自分と情報の一対一の関係性に、外部の他人を加えたコミュケーションが実現したとき、情報は初めて「社会化」されるわけですよ。

『WIERD』をやっていて3年目くらいから意識し始めたのが、発信する情報をどう社会化していくかという問題でして、社会化っていうのは、分かりやすく言えば「WIERDってあれでしょ? イノ“ヴ”ェーションとか言っちゃう雑誌でしょ? 感じ悪いよね」みたいなことを言う人が増えることです(笑)。『WIERD』の読者ではない人たちでも、『WIERD』がどんなものか知っているという状態。それってファンを増やすとか、そういうこととはちょっと違う話なんですよね。

ウェブ上でファンをたくさん獲得しても、そのコンテンツなり、発信者の存在がまったく社会化してない例ってありますよね。たとえば、「YouTuber」とか。フォロワー数が何百万人、何千万人いようとカルトの域を出ないっていう。これはさっきも言った、コミュニケーションの不可避的なブラックボックス化っていうウェブの弊害で、これは俗に「フィルターバブル」って言われるものなんですが。

タジリ:社会性を担保しながら、クリエイティヴィティもあって、ジャーナリズムの哲学もあって、なおかつマネタイズできているというような「理想のメディア」をつくることは可能なんでしょうか?

太田:「理想のメディアとは何か」という問いよりも「いま、何を伝えるべきなのか」という本質を見失わず考えることの方が重要だと思います。何が伝えたいかによって、メディアの最適なかたちは違いますよね。時代における自分たちのメディアの役割について真摯に考えていけば、おのずとそのメディアの形式や方法論は決まってくるんじゃないでしょうか。

太田睦子・『IMA』エディトリアルディレクター

若林:とはいえ、雑誌コンテンツの形式や手法、方法論というものは、90年代から現在までほとんどアップデートされていない気もするんです。編集者の顔ぶれは変わらずなおかつ老齢化しています。業界が新陳代謝していないから、新しいものがなかなか生まれてこない。同じことはすでにウェブメディアでも起こっているかもしれません。

日本の出版業界史を紐解けば、メディア業界全体の発展は常に「クリエイター」の存在に支えられてきたんだと思うんです。たとえばデザイナーの原弘や杉浦康平といったデザイナーが自分のヴィジョンを実現するために、製紙会社とか印刷会社とかに、無理無体な注文を出すわけです。つまりハードルを上げるんですよね。そのおかげで「これまでになかった技術」が開発されてきたわけで、ハリウッドはいまなおそうなんです。かつてならジェームス・キャメロンとか、いまならクリストファー・ノーランみたいな人が、めちゃなことを言うわけですよね。で、現場はそれを実現するために新しいことを考えなきゃならなくなるわけです。

こういう無茶な注文をするクリエイターが不足してるんですよね。紙メディアであれ、ウェブメディアであれ、そういう人間がいま必要なんです。

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