vol.56
いま学ぶべき“PUNK”というカルチャーの特異性
ファッションや音楽、ダンスやアート、デザイン、文学などさまざまな分野に多大な影響を及ぼしているストリートカルチャー。もともと1970年代にニューヨークで誕生したヒップホップや、カリフォルニアで生まれたスケートカルチャーを起源に持つこの一大ムーブメントは、海を隔てたロンドンで同時期に勃発したパンクカルチャーからも多大な影響を受けています。
かつては「破壊」や「反抗」のシンボルだったパンクカルチャーが、いかにしてメルセデス・ベンツやクリスチャン・ディオールといった最高級ブランドをも魅了するようになっていったのか。
今回は、ストリートカルチャーの領域で活動してきたライター、DJ、京都精華大学非常勤講師の荏開津広さんと、セントラル・セント・マーチンズ美術大学を首席で卒業し、イギリスのカルチャーやクリエイティブシーンを間近で目撃してきたリトゥンアフターワーズのデザイナー山縣良和さんによるトークセッションを開催。パンクのDNAがストリートカルチャーをどう進化させてきたのか、おふたりに伺いました。
荏開津 広(ライター、DJ、京都精華大学非常勤講師/以下、荏開津):僕はストリートカルチャーを「普遍的な言語」であると捉えています。そのことは、これまで行ってきたアマナデザイン「オモシロ未来研究所」のM.C.BOOさんとのトークセッションのなかでも何度か話をしていますが、今回はそんなストリートカルチャーの背景に「パンク」の存在があったという話をしようと思っています。
現在、ストリートカルチャーを牽引している人々は「ポスト・パンク世代」にあたります。当事者としてパンクをリアルにつくり上げたのではなく、世代的に少し若くパンクに触れた人たち。例えば、日本人でいうと藤原ヒロシさん。しかしその「ポスト・パンク世代」こそが、ストリートカルチャーを世界中に広めていった超本人たちなのです。
このトーク・シリーズの第1回目『世界はなぜ“ストリート・カルチャー”に熱狂するのか』では、株式会社クラインシュタイン代表の小石祐介さんをお招きして、ファッションという言葉の語源には「行為」や「所作」という意味があることを話してもらいました。日本で「ファッション」というと「流行」や「移ろいやすいもの」という認識が一般的ですが、実は「装いの現象」「装いの様相」という意味もあると、小石さんは言います。つまり「自分がどう見えるのか」「自分はどう見られているのか」という「様(さま)」をつくるのがファッションであると。
ファッションの様相によって、コミュニティの形成を可能にするのです。もしストリートカルチャーがコミュニティなら、その様相であるストリートファッションとは、一度バラバラにしたアイデンティティを再構築する行為だと僕は考えています。今回は、そんなストリートファッションの歴史について、山縣さんにご紹介していただきます。
山縣良和(writtenafterwardsデザイナー、coconogacco代表/以下、山縣):ストリートファッションとハイファッションがどう繋がっているか。荏開津さんもおっしゃっていたように、パンクファッションはこれまでのファッションに絶大なる影響を与えています。1970年代のファッション史のなかでも、今日に至るまで最も影響力があったカルチャーとも言えるでしょう。そこで今回は、パンクファッションの影響をほぼダイレクトに受けていたであろう、僕にも関係のある人物を紹介しながら進めていきたいと思います。
『アフガニスタンとヨーロッパの理想』と題する卒業制作のコレクションでフランス革命後の歴史衣装と中東の衣装を大胆に織り混ぜたセンセーショナルな作品が話題となり、彼はセントラル・セント・マーチンズを首席で卒業、ロンドンを代表する老舗セレクトショップ「ブラウンズ」のショーウィンドウを彼のコレクションで飾り、映えあるデビューを果たしました。
彼の初期の作風は、パンクファッションの生みの親であるヴィヴィアン・ウエストウッドからものすごく影響を受けています。ヴィヴィアン自身も「彼は私の影響下にある」という趣旨のコメントを残しているように、確かに当時彼女がつくっていたデザインとかなりテイストが近いものもあります。同時に彼は、80年代のクラブカルチャーとも親和性が高く、そのファッションを取り入れ現代的なアプローチに落とし込んだ作品をいくつもつくっていました。
その後、何度か破産するなど紆余曲折を経てジバンシィやディオールのデザイナーにも就任しています。90年代中期、クリスチャン・ディオールのクリエイティブディレクターになってからは、世界のさまざまな民族衣装にインスパイアされたハイブリッドな服をつくるようになります。おもしろいのは、2002年に発表されたコレクション。なんと、渋谷のヤマンバギャルがモチーフなんです。ヤマンバはある意味、渋谷のストリートファッションと言えますね。
ガリアーノは2011年、ユダヤ人への差別発言が原因となってディオールを解雇されましたが、2014年にファッションブランド、メゾンマルジェラのクリエイティブディレクターとして業界に復帰。現在はマルジェラのコードを用いつつ、グラマーな要素を取り入れながら、リコンストラクトしていくという作風に至っています。彼は若い学生との交流も積極的で、マルジェラのインターンとして働いていたセントラル・セント・マーチンズの学生パオリーナ・ルッソとのコラボも話題となりました。パオリーナはその後、卒業制作の作品が『デイズド・アンド・コンヒューズド』の表紙に抜擢されました。
山縣:現代のストリートカルチャーを代表する人物として、のちにバレンシアガのクリエイティブディレクターとなるデムナ・ヴァザリアも紹介したいと思います。デムナが設立したブランド「ヴェトモン」は、メゾンマルジェラを意図的にサンプリングすることで有名になりました。創始者のマルタン・マルジェラが去った後、デムナは数年間マルジェラで働いていた経験があります。その後ガリアーノがマルジェラのクリエイティブディレクターに就任。丁度良いタイミングでマルジェラロスの空気感が漂い始めた頃、一定のマルジェラ的なデザインを求める層がいました。彼らに上手くハマったことで人気に火が付き、一躍有名になりました。
ヴェトモンのデザイン手法はマルジェラの引用が多く、同じアイデアや方法論も多く見られます。スタイリングアイデアもフットデザインも、ウェブサイトのデザインまでマルジェラの手法を意識している。新しいデザイン(記号、もしくは記号としてのシェイプ)が生まれなくなったと言われる現代において、近過ぎる題材をあえて「そのままやる」ことで、ファッション界にあった暗黙のタブーを乗り越え、新たなファッションデザインを生み出しました。それは、「この元ネタは〇〇だ」というような、ファッションデザイン史の文脈(context)の暗号(code)を読み解くゲームのようなものです。
またファッションは、社会潮流からインスピレーションを受けてつくられることも非常に多い。2018年3月、ストリートブランド「オフホワイト」のディレクターであり、カニエ・ウェストのスタイルアドバイザーやDJ、ギャラリーオーナーとしても知られるヴァージル・アブローが、「ルイ・ヴィトン初の黒人デザイナー」としてメンズラインのアーティスティックディレクターに就任しました。ルーヴル美術館で行われた初のファッションショーでは、ランウェーをLGBTQの尊厳と社会運動を表すレインボーカラーにして話題に。いまヨーロッパではイギリスの欧州連合(EU)離脱、通称ブレグジットの話題で持ちきりですが、つい最近行われたバレンシアガの最新コレクションのショーでは、欧州旗のブルーに染められた欧州会場をイメージした床のセットが印象的でした。
香港で起こっている大規模デモも、今後確実にファッションの潮流になっていくでしょう。先日「マスク禁止法」が制定されました。その対抗措置として、マスクの代わりに自分の髪の毛を使って顔を隠す人が出てきたりしています。社会で起こっていることがあらゆるかたちで反映されているのが、ファッションのおもしろいところだと思いますね。
今後のファッションは「不思議な人間」がキーワードになっていくでしょう。身体拡張や身体装着に抵抗のあるひとはそのままで、抵抗のない人の身体改造はさらに進み、マイクロチップを身体に埋め込んだりハイテクな義肢を装着したりすることで自分をアップグレードする人間が増えていく。AIやVRの技術も進んでいます。少し前にはヒューマノイドロボット「ソフィア」が、サウジアラビアの市民権を獲得するというニュースが流れました。ガレス・ライトンの提唱するファッションもかなり不思議で、最新コレクションでは「ゾゾスーツ」にインスピレーションを受けた服も登場しました。まさかロンドン・ファッション・ウィークに、ゾゾスーツが出てくるとは僕も思いませんでしたね(笑)。
ひと月くらい前、デムナ・ヴァザリアがヴェトモンを退任してバレンシアガに創作を集中するというニュースが流れました。ストリートファッションとハイファッションの融合も話題を起こす起爆剤としての役割が終わり、今後は緩やかに定着していくでしょう。これからストリートファッション、ストリートカルチャーはどこへいくのか、どこに帰着していくのか。もしかしたらバーチャル上のストリートかもしれません。そこは僕も注目しているところです。
荏開津:山縣さんからは、ハイファッションとストリートファッションがいかに密接に結び付いているかを、これまでの歴史を踏まえながら現在、そして未来に向けてお話ししていただきました。私がいまから話すのは、冒頭でお伝えした「ポスト・パンク世代」の人たちがストリートブランドをつくり、世界中に広げていった90年代から現代までの出来事についてです。
最初に話したように、ストリートファッションは「アイデンティティの再構築」と深く関わりがありますが、それをこの10年、20年くらいの間に最もはっきりさせたのがアジア人だと思います。アジア人の男女がクールであることは、この10年でようやく浸透してきましたね。例えばアジア人のインフルエンサー、クリエイター、ラッパーやDJ、モデル、……20年前は、彼らがクールとは世界の多くの人は思っていませんでした。しかし、過去10年間アジア人像は全体的に変わってきました。K-ポップの影響はあるとしても、東京が世界一クールな都市と位置づけられ、世界のセレブリティが頻繁に訪れるようになった理由を紐解いていくと、ひとつの流れが重要なことに気がつきます。
それを変えた原動力は、日本のストリートファッションの人たちです。先ほど名前を挙げた藤原ヒロシさん、それから現在「C.E.」というブランドのスケートシングさん、もしくは「NEIGHBORHOOD (ネイバーフッド)」の滝沢伸介さん、名前を挙げていくとキリがありませんが、一時期“裏原宿”というような用語でくくられた方々をここでは例にとってみます。彼らのファッション表現を考えていくと、異なった背景を持つモノを併置して新しい価値を生み出すコラージュという美術の手法や一時期やはり日本のメディアで使われた“編集”という言葉が浮かんできます。しかし、単なるコラージュでは彼らの持っていた新しさを説明しきれない、そうではなく、彼らが影響を受けたパンクを創造した2人組がやってのけたことを振り返ってみましょう。
先ほど山縣さんも紹介していたヴィヴィアン・ウエストウッド。そして、彼女にとって最初のパートナーだったマルコム・マクラーレン。マルコムは1971年、ヴィヴィアンと一緒にブティック「レット・イット・ロック」を開店。このお店は1950年代のロックンロールをモチーフにした服を置いていましたが、70年代半ばになるとパンクファッションを売るようになります。お店の名前もコロコロ変わり、最終的に「セディショナリーズ(煽動者たち)」という名前になりました。セックス・ピストルズのマネジメントも務めていた彼は、バンドメンバーにセディショナリーズの服を着せて売り出していったんです。セックス・ピストルズは2年くらいで解散してしまいますが、『アナーキー・イン・ザ・UK』や『ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン』といった反体制的な楽曲で、全英ナンバーワンヒットを記録しました。
次にマルコムは、1983年に発表した自分名義のアルバム『ダック・ロック』にニューヨークで流行っていたヒップホップを反映させました。彼が単なる新しいもの好きで、流行をただ追いかけているだけの人物なのか?というと、そうではないと思います。そのことはセディショナリーズの個々のアイテムを見ると分かります。
例えば精神病院の拘束衣をモチーフにしたボンテージパンツや、ラバーソールのアイテム。ラバーソールというのは実は和製英語で、本来「ブローセル・クリーパーズ」という名称でした「ブローセル(brothel)」は「売春宿」、「クリーパーズ(creepers)」は「這う人たち」。“売春街をこっそり歩く人たち”という商品名で、第二次世界大戦でアフリカ戦線から帰国した兵隊たちが、砂漠用の厚底靴を履いて売春宿へ通っていたことが由来となっています。
こうしたいろんな要素を組み合わせてファッションに落とし込むというやり方は、当時は斬新でした。それまでつくられていたプロダクトには、それぞれ政治や社会といった歴史的な文脈があり、それは国や所属している階級によっても違うわけです。ですがマルコムはその文脈を無視して、つい悪意と言いたくなる誘惑あるテイストが入った、扇動するようなもの、挑発するようなものを提示してきた。それは日本のストリートファッションにも受け継がれています。このように、いろいろな要素をコラージュしたファッションがストリートファッションと言えるのです。しかし、単なるコラージュではない、そこでマルコムが影響を受けた、自分たちなりの芸術表現を目指すのではなく、芸術表現を利用するという「S.I.」ことシチュアショニスト・インターナショナルについて振り返る必要があると私は思っています。
荏開津:芸術表現を利用するということをマルコムが思いついたのには、マルクス主義者の思想家であり映画作家のギー・ドゥボールの影響があります。彼は1957年から73年くらいまでアンテルナシオナル・シチュアシオニスト、英語ではシチュアショニスト・インターナショナルという、マルクス主義的思想を持ったアーティスト集団で活動をしていました。初期は文化批判、後期は政治批判を中心に行い、その活動が五月革命に与えた影響は大きいと言われています。
実際に革命は成し遂げられなかったけれども、いまのストリートカルチャーのグラフィティは、パリで起こったこの革命が始まりだったとされています。学生たちが大学のキャンパスや街中に政治的なスローガンを描く姿が、当時のメディアを通して世界中に広がっていく。それはベトナム反戦運動に参加していた若者とも共鳴し、彼らもグラフィティに自分たちの政治的スローガンを混ぜてストリートに発表していました。
マルコムは、このギー・ドゥボールにものすごく傾倒しています。1976年にアナーキーシャツやボンテージパンツなどを考案する10年前、彼はロンドンの美大生でした。そこで美術を学ぶなか、1968年に五月革命が起こり「フランスはどうなるんだ?」と世界中が固唾を呑んで見守っていたときに、彼はパリに倣って学内でストライキを行ったり、実際にパリまで行きドゥボールに会って彼の著書『スペクタクルの社会』にサインをもらったりしています。
ここで『アートワード(現代美術用語辞典)』に掲載された、土屋ユリさんによる『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』についての解説を一部引用します。
“シチュアシオニスト(状況派)は、大量消費やイメージの支配する既存の社会体制、都市計画等へ反発し、それらに支配されないまったく新しい欲望の形態を創出すべく、解放された生の瞬間を集団的かつ意図的に作り上げる、いわゆる「状況の構築」を目指した。また、そのための具体的な手法として「転用(デトゥルヌマン)」「漂流(デリーヴ)」「心理地理学(サイコジオグラフィ)」などを提唱及び実践を行なった。”
『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』の冒頭に、「発表されたすべてのテクストは、出典を明記しなくても自由に転載、翻訳、翻案することができる」とある。つまり、いままでの文脈から切り離してコラージュし、それにより全く新しい文脈を生み出すのですが、そこで新しい芸術表現を生み出すのが目標ではないのです。そうではなく、その芸術表現を利用するということに影響を受けたマルコムの手法は、マルクス主義のドゥボールに接近したからこそ学びとなり、そのままセックス・ピストルズへと応用することができたのだと思います。
荏開津:最後になぜ、いまストリートファッションが重要なのかについてお話しします。現在は1977年とも2000年とも全く違う時代です。とりわけ社会の構造は劇的に変化し、富裕層や貧困層のコンテクストから新たな用語がどんどん日本でも生まれています。そこでよく言われているのが、アダム・スミスの『国富論』にも出てくる「分業」という言葉です。みんなで分業し、それぞれが専門的なことをやった方が、能率が上がり富を増やせる。ただ、いまはものすごい勢いで分業が進んでしまったため、個人でさえまるで商品のように商品化してしまっているともささやかれています。簡単に言えば、個人の価値が買い叩かれてしまったことが大きな問題だということです。
そんななか、ストリートカルチャーは小さく閉塞してそれぞれが小さなセルのなかにいるようになってしまった社会から飛び出し、「自分」という存在の再構築を手助けしてくれ、グローバルに流通できる「普遍的な言語/価値」でありパスポートである、というのが僕の持論です。そのヒントは、マルコムと日本のストリートファッションをつくってきた人たちから得ました。社会の構造を新たな視点で見るには「新しい見方」が必要なのです。シチュアショニスト・インターナショナルに触れたことでマルコムのファッションの捉え方は大きく変わりました。新しいアイテムを実際につくり、新しい「装い」や「様相」をつくり出したのです。
全ての人・モノには人種、ルーツ、社会的な地位や政治、歴史的文脈といったバックグラウンドがあり、それぞれ異なったものを組み合わせコラージュすることによって、新たな文脈とアイデンティティを再構築することができる。それを最初にやったのは、美術の人たちですね。でも、そこで美術という領域にとどまらならなかったら?ということから考えています。ファッション界ではマルコムとヴィヴィアンがパンクカルチャーとして最初にスタートし、ポスト・パンク世代がストリートカルチャーとして拡張していったと思います。
資本主義社会で最初から大勢の人が賛成しているようなアイデアでは、その後の成長のドライブを持つことができません。最初は少数の人しか価値を認めないような、多くの人が忌み嫌うようなアイデアでも、否定を乗り越えることでものすごく大きな価値を内包していく。パンクをいまだに「反抗」や「反逆」というワードだけで捉えることは、パンク黎明期のバリューでしかない。パンクが生まれた1976年から現在の2019年の間までに、実際にはマルコムのつくった方法論は、ストリートカルチャーという形で世界中を覆っているんじゃないかと思います。
山縣さんの言葉を借りると、ストリートファッションとハイファッションのマリアージュはいったん終わったのです。これからは、パリを中心に伝統的なファッションがトレンドとなる時代へと回帰していくのかもしれません。それはまた考えていかなくてはいけない。しかし、ファッション表現を利用していくパンクからストリートカルチャーへと続く価値の創造はますます重要になっていく。そういった価値観はいつまでも残り、21世紀のメインストリームになるんじゃないでしょうか。
山縣:自分のなかで、言語化できずにぼんやりと考えていたことが、荏開津さんの話を聞いて「あ、そういうことだったんだ」と発見させてもらう瞬間が何度もありました。こういうパンクの源流の話はネットなどで探してもなかなか出てこないので、詳しく聞けて良かったです。とにかくパンクカルチャーの影響って、ファッションの世界でも絶大なんですよね。そこを深掘りできたことは、今後、自分の活動にも役立つと思いました。
荏開津:山縣さんの話で思ったのは、ファッションはやっぱり「モノ」だということ。実際にファッションを支えているのは技術だったりするわけですよね。例えばヤマンバのファッションをディオールのコレクションに加えるといっても、そこには技術力が必要です。ヤマンバがそのままランウェイに乗っているわけじゃない。その辺りをきちんと考えるのは、今後の自分の課題だと思いました。
M.C.BOO:本日はインパクトのあるビジュアルとともに、ストリートファッションのいまとこれからのヒントを系統立てて語っていただきました。パンクのように新たなジャンルが誕生すれば、ファッション業界もよりおもしろくなっていきそうですね。ありがとうございました。