私たちはなぜ美しいものに惹かれるのか。「Aspect of Beauty -引き継がれる美、進化する美-」トークイベントレポート

vol.76

Aspect of Beauty -引き継がれる美、進化する美-

Text by Mitsuhiro Wakayama
Photograph by KInji Kanno

「美」はいつの時代も人を魅了し、また、人はいつの時代も「美」を探求することで文化を継承してきました。

なぜ人類は「美」を追い求めるのでしょうか。

460年以上にわたって、その時代の美と文化を反映し、つなげてきた京友禅の老舗・千總とアマナが共催でイベントを開催。歌舞伎俳優の市川猿之助氏と、脳科学者であり京都芸術大学客員教授の中野信子氏をゲストに迎え、クロストークのなかで人間が本能的に求める「美」の正体に迫りました。

 (左から)脳科学者の中野信子さん、歌舞伎俳優の市川猿之助さん、株式会社アマナのタジリケイスケ (左から)脳科学者の中野信子さん、歌舞伎俳優の市川猿之助さん、株式会社アマナのタジリケイスケ

タジリケイスケ(以下、タジリ):今回のトークセッションは「美とは何か」「なぜ私たちは美を必要とするのか」というテーマで、おふたりからお話を伺っていこうと思っています。まず、猿之助さんにお伺いしたいのですが、歌舞伎における「美しさ」とは何だと思われますか? 一般的には、格調高い所作や見た目の華やかさを指すのだと思うのですが——。

市川猿之助(以下、猿之助):半分くらいは先入観だと思いますよ。ルーブル美術館のモナ・リザは「美しいものだ」と思ってみんな見にいくでしょう? それと同じで、歌舞伎も「美しいもの」と解説されることがほとんどだから、そう思われているだけなんじゃないでしょうか。歌舞伎が「美しい」なんて、僕は信じてませんけどね(笑)。

市川猿之助さん市川猿之助さん

ただ、歌舞伎に先人たちの美意識が詰まっているのは確かです。江戸時代の感性がそのまま冷凍保存されたような世界ですからね。過去の人々がもっていた美意識を味わえるのが、歌舞伎の世界だと思います。そしてそれは、現代の僕たちの美意識と必ずしも同じではない。ですから、先人の美意識に共鳴したり、反発したりしていくのが歌舞伎なのではないかと、僕は思っています。

中野信子(以下、中野):すごくおもしろいお考えだなと思いました。歌舞伎の美しさは「先入観」だとおっしゃいましたが、それは科学的にも裏付けられています。

中野信子さん中野信子さん

美の認知って、脳の複数の領域を使って行われているんですよ。大きく3種類の領域があって、一つ目は美なるものを直感する領域。歌舞伎の伝統的な所作とか、夕日が美しいとか、そういった普遍性をもった「美」を認知するところですね。二つ目は、逆に自分の直感を情報によって上書きする領域。人間は「これは美しいものだ」と刷り込まれると、自分がそう思っていなくても美しいということにしてしまうんですね。実はこの領域は、知性を司る部分でもあります。そして三つ目は、先の二つの認知を擦り合わせていく領域です。

つまり「これは今までのとは違うけど、でも美しいよね」という認知を可能にする領域も存在するんです。この三種の領域があいまって芸術が成立していることを考えると、猿之助さんは実に鋭く核心を突いてらっしゃるなと。すごい分析力……!

猿之助:なるほど。だから偽物がはびこるわけですね。美しいとみんなが言っていれば、それは「美しいもの」になっちゃうわけだから。

なぜ、美の基準は時代によって違うのか?

タジリ:歌舞伎は今でこそ伝統的なものとみなされていますが、出自をたどれば傾く(かぶく)、つまり逸脱や奇抜さを旨とした芸能だったわけですよね? そこには一見矛盾があるように思うのですが、猿之助さんはその点をどのようにお考えですか?

タジリケイスケタジリケイスケ

猿之助:はみだすためには、枠や型がないといけません。オーソドックスがなければ、はみだすこともまたあり得ない。ですから、伝統と革新は車の両輪のように、両方とも必要ですよね。

中野:「はみだすにはオリジナルが必要だ」というお話、大変興味深いですね。「はみだす」ということを可能にするのは、脳の内側前頭前野と呼ばれる部位です。ここでは格好いい/悪い、美しい/美しくないという判断と合わせて、善悪の判断も行われているんです。見た目と中身、両者の良し悪しが同じ場所で処理されているのはおもしろいですよね。

重要なのはここからで、この善悪の判断基準が一定だと非常に危険。見た目と中身の評価が一致しがちだということは、裏を返せば、美しい容姿の人が悪いことをやっていても気がつきにくいということです。もし、そういう人に社会が扇動されると、さいあく全滅もあり得る。だから、私たちは頻繁に判断基準を更新していくんです。社会を健全に保つためには、現状を盲目的に肯定しない「かぶいた」見方が常に必要です。もしかすると、歌舞伎の社会的な役割もそのあたりにあるんじゃないかと思います。

タジリ:猿之助さんは現代的な文化を取り入れたスーパー歌舞伎の演目も手掛けられていますが、それらと古典歌舞伎はどういった関係にあると言えますか?

猿之助:よく申し上げるのは、スーパー歌舞伎は古典歌舞伎の「現代語訳」であるということです。例えば、源氏物語でも「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に——」と原文を読んで感激できる人はそういないわけで。やはり現代語訳を読んで意味が分かって、初めて感動するわけでしょう? あるいは、そうした「現代語訳」は、古典への入り口とも言えるかもしれませんね。

登壇者ふたり

 

中野:時代を超えて同じストーリーを伝える場合、こと観者に感動を与えようとする場合は、とうぜん当世の言語で上演する必要がありますよね(笑)。演者は同じことをやっていても、時代が変わってしまうので、同じように理解されることは難しくなってしまう。要するに「そこにとどまるためには、走り続けなければならない」ということなんです。進化し続けなければ、生存競争には勝てず絶滅してしまう。これは「赤の女王仮説」といって、生物進化に関する仮説のひとつです。歌舞伎も日々進化していくことで、後世に継承される伝統たり得るんだなと、今のお話を聴いて改めて気づきました。

ルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王の、「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」という言葉にちなみ、「赤の女王仮説」と名付けられた。©︎Bridgeman Images /amanaimagesルイス・キャロルの小説『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王の、「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」という言葉にちなみ、「赤の女王仮説」と名付けられた。©︎Bridgeman Images /amanaimages

猿之助:おもしろいですね。走り続けなければとどまれない……

タジリ:猿之助さんも、そういった想いはもっていらっしゃるんですか?

猿之助:どうなんでしょうね。そんな高邁(こうまい)な理念はないですよ。食べるためにやってるだけですから(笑)

中野・タジリ:(笑)

価値の反転、美は社会を健全に保つ

タジリ:猿之助さんは骨董蒐集もされていると伺いました。骨董の世界の審美もまた特殊ですよね。

猿之助:そうですね。「完璧」の語源の通り、大陸の人々が傷ひとつないシンメトリックなものに美を見いだすのに対して、日本の場合は割れや欠け、汚れにまで美を見出します。千利休らがつくり出した侘茶の価値観は、やはり日本独自のものなんでしょうね。ひび割れに茶渋がついたのを「いい景色ですね」なんて尊ぶのは、彼の国の人にしてみれば理解に苦しむでしょう。自分でもたまにバカバカしくなってきますからね。「欠けてるほうが美しい」なんて、ちょっと異常なんじゃないかって……(笑)。

中野:利休がおもしろいのは、ものごとの価値を反転させたことですよね。畳二畳の極小空間を「宇宙」と言ってみたり、野の花を美しいものとして珍重したり、絢爛豪華を愛した時代にあって黒が好きだったり……。スタンダートとは違ったものを良しとする転換をあえてやった人ですよね。そして、そんな人が「堺」という名の都市から出てきているのも興味深いことです。境目を生きる人という意味では、舞台役者さんもそうですよね。虚構と現実の境目であったり、あの世とこの世の境目であったり——。

猿之助:超人とも言えるし、奇人変人とも言えるしね(笑)。

市川猿之助さん

中野:(笑)。おそらく猿之助さんたちは、そうやって境目を行き来しながら価値転換の触媒になって、私たちの社会を健全に保つ重要な役割を果たしてくれているんでしょうね。そういう役割を無意識に感じているから、利休にはじまる骨董の世界にも親しんでらっしゃるのかなと思います。

脳科学が解き明かす、美の必然性

タジリ:そもそも、なぜ人は美しいものに惹かれるんでしょうか?

2021年秋に発表された千總のアイコン的なコレクション「花と鳥と」の訪問着。四季折々の花の中を鳥が飛び交う優美な世界を描いている。2021年秋に発表された千總のアイコン的なコレクション「花と鳥と」の訪問着。四季折々の花の中を鳥が飛び交う優美な世界を描いている。

中野:美というものは、今日明日を生きていくうえではさほど必要のないものです。衣食住を充足させるためには役に立ちません。しかし、10年20年、百年、千年先を人が生きていくためには、美が必要なのかもしれない——という仮説を実証するために、私は研究を続けています。美の認知には、人間の脳のあらゆる部分が使われています。脳のかなりの部分を駆使して認知している美というものが、無駄なはずはないんですね。

解剖学的見地からみた人間の脳の最も特徴的な部分は、発達した前頭葉だと言われています。ここでは「複雑な社会性の処理」が行われています。これを行うには倫理、すなわち社会のルールが必要になってきます。しかし、これには非常に繁雑な計算がともなうので、脳はそこにトリックをひとつ導入したんです。倫理的か否かを計算するより、倫理的なものは「美しい」ということにしてしまえ、と。要するに、美という概念を導入すると社会をうまく処理できるわけです。

美の導入によって回避できる危機が二つあって、それは「大規模な戦闘」と「リソースの枯渇」です。つまり、少欲知足的な「美しい」生き方ができれば、社会の崩壊や種の全滅が避けられるということなんですね。社会を最善に向かわせる機能を拡張してきたのが、人間の脳の発達の歴史であるとも言えます。まだ不完全ですが、これから先、美の重要性はもっともっと高まってくるんじゃないかなと思っています。

トーク中の様子

必要と実用から生まれる美

タジリ:先ほど「価値の反転」というお話がありましたが、美の基準というのは時代や場所によって多様に変化するものなんですね。

中野:そうですね。国や文化のあいだで異なる、ユニバーサルでない基準について調べていくと興味深いことがわかります。例えば、白色は日本だと清浄で聖なるものをイメージさせますが、ロシアでは悪魔の色とされています。雪が生命を脅かすからです。色に限らず、美男美女の基準なんかも違いますよね。美の基準が変わっていくこと、多様であることこそ、ヒトという種が今日まで生き残っている理由のひとつなんだと思います。

タジリ:白色といえば歌舞伎も白塗りをしています。例えば隈取りも、時代によって変化しているんでしょうか?

猿之助:何をもって変化というかは難しいところで、同時にそれはどこからどこまでが歌舞伎なのかという話でもあるわけです。一説には、歌舞伎の白塗りは、暗い芝居小屋でも役者の顔が映えるように白く塗ったのが始まりだと言われています。要するに、歌舞伎の化粧は非常に実用的な問題に端を発している。

思うに、当初は「美を創造してやろう」なんて気持ちは微塵もなかったんじゃないかな。お客さんに入ってもらうためにたまたま講じた工夫が、だんだんと「あっ、こりゃいいな。これもいいや」となるなかで、一種の価値体系がつくられていったんじゃないかなと思うんです。先ほどの中野さんの話ではないですが、お客さんが喜んでくれたことは「良いこと/美しいこと」として認知されていったんでしょう。

中野:最初は便宜的にやった行動でも、それがいい結果を生んだことでさらにエスカレートしていくことは十分に考えられます。例えば、フラミンゴの体色の濃さやクジャクの羽の大きさがそうで「雌がいいと言ったから」という理由だけで発達しているんですね。これを進化生物学では「ランナウェイ」と呼んでいるんですが、似たような現象が歌舞伎という文化のなかでも起こっていたとしたらおもしろいですよね。

進化する美が社会を変えていく

中野:話は少し変わりますが、猿之助さんは現在の歌舞伎の世界にも反骨精神は残っていると思いますか? 江戸時代って、例えば「四十八茶百鼠」のように、強い制約のなかでも楽しんでやろうじゃないかという気概が見られるんですよね。権力に対する反逆精神というか。歌舞伎も同時代の芸能ですから、もしかすると似たような心意気が宿っているのかなと。伝統や型を重んじつつも、既存のルールに抵抗してやろうというマインドは受け継がれているものなんでしょうか?
※四十八茶百鼠:江戸時代後期、庶民が着られる着物の色は「茶」「鼠」「藍」のみと規制がかけられた。町人たちはそれらの暗い色のなかに繊細微妙なこだわりを取り入れ、微妙な染め分けをした新色を多数作った。その際の茶色と鼠色の膨大なバリエーションを「四十八茶百鼠」と呼ぶ。

猿之助:どうなんだろう。忠臣蔵は演目として昔からありますが、初演から長らくは、時代設定も登場人物の名前も史実とは違っていました。赤穂事件をそのまま芝居にすると、お上から弾圧を受けますからね。しかし、触法すれすれのところでやっていく。歌舞伎の歴史を紐解けば、常にそういう反逆はあったわけです。江戸時代は300年間、平和なように見えても、庶民のあいだには反権力の意志が根付いてましたから。そう考えると、現代人は飼い慣らされちゃってるよね……。

中野:反骨精神が文化をつくった時代だったんでしょうね。

猿之助:あるいは、暴力で反抗しても勝ち目はないから、文化的な面で鬱憤を晴らしてたのかもしれない。

中野:それはめちゃくちゃ格好いいなぁ! それこそ”美の使い方”ですよ。

猿之助:鬱屈とした感情が美として爆発するわけだ。

中野:血を流すことなく、社会全体を変えていく力が美なのかもしれませんね。

中野さん

 

タジリ:おふたりとも、たいへん興味深いお話をありがとうござました。それでは最後、まとめに代えて質問をひとつ、おふたりに投げかけたいと思います。

情報の多様化とは裏腹に、社会の価値観が画一化しつつあるのが現代です。ある意味、既成のルールに反発する「美」が生まれにくい世の中になっているとも言えるわけですが、私たちはどのように対処していくべきでしょうか?

中野:「あの人は私と違うからステキ」と思えるような社会であるべきだと思うんですよね。とかく日本社会は出る杭を打つ傾向にありますが、自分たちとは違ったものに憧れや敬意をもてるとよいですよね。そのために、猿之助さんのようなスーパースターにはもっと活躍していただかないと(笑)。

猿之助:なるほど、人気者として手の届かないところまで行っちゃえば、叩かれずに憧れの対象になるんだね(笑)。たしかに、婆娑羅(ばさら)は社会のはみ出し者だけど、同時に人と違う格好をして目立つから人気者にもなれるわけだ。
※婆娑羅:華美な服装で飾りたてた伊達(だて)な風体や、派手で勝手気ままな遠慮のない、常識はずれのふるまい、またはその様子を表す。

登壇者ふたり

 

中野:だから、今こそ歌舞伎に「かぶいて」いただいて!

猿之助:難しいこと言うね(笑) まあ、美が生まれにくい時代になっちゃったけどさ。でも、だからこそ”やりがい”があるんでしょうね。

タジリ:歌舞伎から現代アートまで、「美の担い手」にかけられる期待は今後いっそう高まってきそうですね。本日はありがとうございました。

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